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朔太郎の死なない蛸

   死なない蛸
                      萩原朔太郎

 或る水族館の水槽で、久しい間、餓ゑた蛸が飼われてゐた。地下の薄暗い岩の影で、青ざめた玻璃天上の光線が、いつも悲しげに漂ってゐた。
 だれも人々は、その薄暗い水槽を忘れてゐた。もう久しい以前に、蛸は死んだと思われてゐた。そして腐つた海水だけが、埃つぽい日ざしの中で、いつも硝子窓の槽にたまつてゐた。
 けれども動物は死ななかつた。蛸は岩影にかくれて居たのだ。そして彼が目を覚ました時、不幸な、忘れられた槽の中で、幾日も幾日も、おそろしい飢餓を忍ばねばならなかった。どこにも餌食がなく、食物が全く尽きてしまつた時、彼は自分の足をもいで食つた。まづその一本を。それから次の一本を。それから、最後に、それがすつかりおしまひになつた時、今度は胴を裏がへして、内臓の一部を食ひはじめた。少しづつ他の一部から一部へと。順々に。
 かくして蛸は、彼の身体全体を食ひつくしてしまつた。外皮から、脳髄から、胃袋から。どこもかしこも、すべて残る隈なく。完全に。
 或る朝、ふと番人がそこに来た時、水槽の中は空つぽになつてゐた。曇つた埃つぽい硝子の中で、藍色の透き通つた潮水と、なよなよした海水とが動いてゐた。そしてどこの岩の隅々にも、もはや生物の姿は見えなかつた。蛸は実際に、すつかり消滅してしまつたのである。
 けれども蛸は死ななかつた。彼が消えてしまつた後ですらも、尚ほ且つ永遠にそこに生きてゐた。古ぼけた、空つぽの、忘れられた水族館の槽の中で。永遠に――おそらくは幾世紀の間を通じて――或る物すごい欠乏と不満をもつた、人の目に見えない動物が生きて居た。


※詩でとぼう☆翼の会(仮称)第8回で読まれた詩作品。


  手足とは生きることを可能にする手段であると思う。
まづはその手段を食い、餓ゑをしのぐ。次には生の衣を、そして生そのもの(目的)といえる脳髄と、胃袋を食う。実際には脳髄以降はあり得ないないのだが…。

 私はこれをしたことがあるので、この詩を読むと胸がひりひり痛い。
手足が言うことをきかないのは、昔食つてしまつたからだと思う。
生を希む力の回復は、水槽をがんがん叩くことから始まるだろうか。もう自分の手足は食わないぞ。
by Fujii-Warabi | 2013-04-20 22:25 | 芸術鑑賞
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