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最近観た映画~レネ、カウリスマキ、川端など

 私は元々映画好きだが、映画は視覚・聴覚を過剰に刺激して頭から離れなくなるので、少し前までは観るのを控えめにしていた。それがこのところ良質な映画を観る機会が多く、様々なことを考えさせられた。

 先月末、ベルナール・スティグレール著『〈象徴〉の貧困』で第二章を丸々割いて語られたアラン・レネ監督作品『恋するシャンソン(みんなその歌を知っている)』を観て、解説を聴き、語り合う機会があった。文化的に貧困だと思っていた奈良でも、こうした良質な映画の上映運動を地道に続けている団体があり、驚いた。
 あの後ゆとりがなくて、この映画についてここでは書くことができなかったが、誰でも観ることのできる娯楽的要素とこの社会の根底を描く深い思想を兼ね備えた優れた作品で、今も強く印象が残っている。現代を覆う「不安」とは何なのか?どこから来るのか?現代とはどういう時代なのか?この危機をどうやって超えてゆけばいいのか?を考えさせられた。芸術・文学を志す人には特に観てほしい映画である。

 先週は、フィンランドの巨匠アキ・カウリスマキ監督の映画『過去のない男』をレンタルDVDで観た。
以前カスタマーズレヴューを読んで、良し悪しを何とも判断しがたく、レンタルするには少々迷ったことがあったが、ペドロ・アルモドバルの映画『ボルベール〈帰郷〉』を観る際に、その前のCMでカウリスマキの敗者三部作と呼ばれるうちの最終作『街のあかり』が流れ、6回ぐらい再生、CMなのにハマってしまった。早速レンタルしようとしたところ、貸し出し中だったので、空いていた『過去のない男』のほうにした。
(『ボルベール』のほうはまた、アルモドバルを語る時に書きたいと思う。)

 『過去のない男』は2002年のカンヌ国際映画祭でグランプリと主演女優賞をダブル受賞した作品なのだが、「大作」と呼ばれるような映画が絶対映さないような「排除されたもの」をふんだんに描いていて、美しい。
名前も記憶も財産も失った丸裸の主人公の男が、やはり国家から見放された〈貧者〉に助けられ、少しずつ再生してゆくという物語。(フィンランドのような福祉国家であれ、人は名前とそれなりの身分を持つ「何者か」でないと、国家に暴力を振るわれるのだ。)
 しかし、人はどんな苦境でも生きてゆかねばならない。では、どうすればよいのか。カウリスマキは、希望を失わず期待しすぎず、生活のなかで共同とアイデアとユーモアを持って生きるとことを提案をしているように思えた。
 こんな映画を日本へと届けてくれる映画人が今、どれぐらいいるだろうか。私はこの一本ですっかりカウリスマキに魅せられてしまった。

 川端康成原作、衣笠貞之助監督の前衛映画『狂った一頁』(1926年)を活動弁士つきで、やはり日仏協会や京都・奈良EU協会といった映画上映運動をされている方々の主催によって、観る機会に恵まれた。
 まず、活動弁士・吉岡一郎氏が同年代ぐらい、と若いのに驚き、映画を見始めたころはこの人物が気になっていたのに、のめり込んでゆくと映画の音声となって聞こえてきたのが不思議だった。活動弁士は凄い職業だと思う。芸術・文学・歴史といった知識、詩・小説を書く才能、講談師・エンターテイナーとしての資質が要る。こういう仕事にもっと光を当ててほしいものだ。
 作品のほうも、とても革新的な内容だった。映像もどのようにして撮影されたのかわからないシーンがあったり、テーマとしても〈正気〉〈狂気〉の境目を壊すというようなものだった。
私たちは「狂人だ」と名指されることなく日常を過ごせているから、自分を「正常」だと思っているに過ぎないのだろう。誰のなかにも〈狂気〉は存在し、それは人をその人たらしめる重要な個性だと私は思っている。だから、川端が、精神病院に閉じ込められた「精神病者」への差別を描き、能の笑い面を彼らに被せ、解放で結んだことに胸が熱くなった。

 映画のことを書き出すとつい長くなる。疲れてきたので、つづきはまた数日後。
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by Fujii-Warabi | 2010-03-29 23:38 | 芸術鑑賞