おかげさまで。

長らくごぶさたしていました。
ただ存在するだけで時間は過ぎてゆきます。
肌はしわが寄り、髪は白くなるのです。
年の瀬に一年を振り返って、時間の存在を考えていました。

今年は回復の一年でした。
自分である感触が戻ってきて、健康とはこんな感じだったということを思い出しました。
そして、人との出会いも多く、そこから可能性の広がりを夢想することができました。
来年はここからもう一歩踏み出してみたいと思います。

この一年、どうもありがとうございました。


P.S.
The Wembley Crownで新年を迎える予定です。
もしよろしければ覗いてみてください。

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# by Fujii-Warabi | 2010-12-30 18:51 | 身辺雑記

Oscar Wilde ''Athanasia''

    Athanasia
                   Oscar Wilde

To that gaunt House of Art which lacks for naught
Of all the great things men have saved from Time,
The withered body of a girl was brought
Dead ere the world's glad youth had touched its prime,
And seen by lonely Arabs lying hid
In the dim womb of some black pyramid.

But when they had unloosed the linen band
Which swathed the Egyptian's body,--lo! was found
Closed in the wasted hollow of her hand
A little seed, which sown in English ground
Did wondrous snow of starry blossoms bear
And spread rich odours through our spring-tide air.

With such strange arts this flower did allure
That all forgotten was the asphodel,
And the brown bee, the lily's paramour,
Forsook the cup where he was wont to dwell,
For not a thing of earth it seemed to be,
But stolen from some heavenly Arcady.

In vain the sad narcissus, wan and white
At its own beauty, hung across the stream,
The purple dragon-fly had no delight
With its gold dust to make his wings a-gleam,
Ah! no delight the jasmine-bloom to kiss,
Or brush the rain-pearls from the eucharis.

For love of it the passionate nightingale
Forgot the hills of Thrace, the cruel king,
And the pale dove no longer cared to sail
Through the wet woods at time of blossoming,
But round this flower of Egypt sought to float,
With silvered wing and amethystine throat.

While the hot sun blazed in his tower of blue
A cooling wind crept from the land of snows,
And the warm south with tender tears of dew
Drenched its white leaves when Hesperos up-rose
Amid those sea-green meadows of the sky
On which the scarlet bars of sunset lie.

But when o'er wastes of lily-haunted field
The tired birds had stayed their amorous tune,
And broad and glittering like an argent shield
High in the sapphire heavens hung the moon,
Did no strange dream or evil memory make
Each tremulous petal of its blossoms shake?

Ah no! to this bright flower a thousand years
Seemed but the lingering of a summer's day,
It never knew the tide of cankering fears
Which turn a boy's gold hair to withered grey,
The dread desire of death it never knew,
Or how all folk that they were born must rue.

For we to death with pipe and dancing go,
Nor would we pass the ivory gate again,
As some sad river wearied of its flow
Through the dull plains, the haunts of common men,
Leaps lover-like into the terrible sea!
And counts it gain to die so gloriously.

We mar our lordly strength in barren strife
With the world's legions led by clamorous care,
It never feels decay but gathers life
From the pure sunlight and the supreme air,
We live beneath Time's wasting sovereignty,
It is the child of all eternity.

†Oscar Wilde "Poems" 1913 Methuen and Co. edition.





   アタナシアi―不滅―
                      オスカー・ワイルド
                       藤井わらび 訳

人がiiから救いだした善きものすべてをそろえた
あの芸術の荒(あば)ら家へと、
死で朽ちた少女の体が運ばれた。
それは世界が輝かしい青春を迎える前のこと。
少女は黒いピラミッドの仄暗い奥秘iiiに
隠れ臥(ふ)す孤独なアラブの民に見つけられた。

しかし、このエジプト人の体を巻く
リネンの帯が解かれたとき――ああ
彼女の痩せた手の窪みにしまわれていた小さな種が現れたのだ。
それは、イングランドの大地に蒔かれ、
雪のように白い星形の花をつけ、
春の大気に芳しい香りを振りまいた。

この花はあまりにも不可思議な技で魅惑するので、
アスフォデルivは全く忘れられ、
百合の情人(こいびと)、琥珀の蜂も住み慣れた花杯(さかずき)を捨ててしまった。
これは地上のものではなく
天上の理想郷(アルカディア)から盗まれた花のようだった。

徒らに悲しいナルキッソスvは、己の美しさに青ざめ白くなりながら、
小川の上に頭(こうべ)を垂れている。
紫の蜻蛉(とんぼ)は自分の羽根を煌(きら)めかせる
ナルキッソスの金粉ではよろこばず、 ああ、
ジャスミンの花に口吻(くちづ)けても悦ばす
ユーカリから零(こぼ)れる小雨の真珠を払いのける。

この花への愛のため、情熱の夜鳴鳥vi(ナイチンゲール)は
トラキアの丘も、残虐な王も、忘れてしまった。
青白い鳩は、花盛りというのに木々の間を飛ぶこともせず、
銀色の翼を羽ばたかせ、紫水晶(アメジスト)の喉を鳴らし、
このエジプトの花を求めて漂った。

灼熱の太陽が蒼空(そら)色の塔のなかで燃えているとき
冷たい風が雪の国から這ってくる。
暖かな南風が優しい露の涙で花の白い葉を濡らすのは
宵の明星(ヘスペロス)viiが海原色の空の牧場に登るとき、
そこには入り日の緋(あか)い閂(かんぬき)が降ろされる。

百合が咲き出(いず)る曠野(あれの)の上で
鳥たちはくたびれても、なお恋の唄を囀(さえず)る、
サファイアの天高く、月が銀(しろがね)の盾のように身を広げ煌めくときも
慄(おのの)くこの花びらは
怪しげな夢や邪な追憶(おもいで)に揺さぶられることはないのだろうか。

ああ、否! この輝く花には一千年は
ぐずるように残る夏の一日ぐらいにしか思われず、
少年の金髪をしなびた白髪へと変える
浸みゆく毒ような恐れの潮など知らず、死への希求も
誕生(うま)れ堕ちた者すべてが悲嘆する、その所以(ゆえん)にも
気づくはずはなかった。

笛吹き踊りながらも死にむかうわれら、
もう二度と象牙の門viiiをくぐらないだろう。
哀しみの河がありふれた平原と人の住処(すみか)を抜け、
絶え間ない己の流れに飽いたとき、
恋する者のように残酷な海へと飛び込み
華やかに滅びゆくだろう。

われらはかしましい配慮によって率いられる世界の軍隊との
不毛な争いで威厳という力を失うが、
衰えを知らず、純粋な陽光や至上の大気から
生命(いのち)を受け、増(ま)してゆく。
われらはが滅びさせる統治のもとに生存(い)きている、
全く永遠の子どもなのだix。



[註]
i タンジーの学名。和名・ヨモギギク。キク科で真夏に黄色い花を咲かせる、生命力の強い植物。ギリシャ神話の不死の女神「アタナシア」に由来し、「不滅・永遠」を意味する。
ii 天上的な永遠の時間を表すものと思われる。
iii 'womb' とは子宮、ものの発生・成長する所。ここでは人類の文明・文化が発生する所を指すのだろう。
iv 百合科千島石菖(チシマゼキショウ)属の白い花。花言葉は「私はあなたのもの」。古代ギリシャでは天国に咲く永久にしぼまない花と言われていた。また、「死の花」とも呼ばれた。
v 水仙の学名。ギリシャ神話の中の美少年ナルキッソスは川に映る自分の姿に恋するが、その恋は報われずに亡くなり、その後川辺に水仙が咲いたといわれる。この詩にあるように、実際に水仙は自分の姿を覗き込むようにして咲く。
vi 暖かな春、また愛の象徴。その鳴き声は春の訪れを告げるとされる。
vii evening star, 夕方に見える金星(Venus)のこと。半分沈みかけた太陽は真っ赤なリンゴのように見えるが、リンゴを横に切ると5つの種子のある星形が現れる。これが宵の明星ヘスペロスを指す。西方の死者たちの暮らす「至福の島 Islands of the Blessed」に、ヘスペリデスHesperidesという4人のニンフが住み、ヘラHeraの金のリンゴ園を守っている。ヘスペリデスは宝探しの象徴、または死のテーマを表す。
viii ギリシャ神話で夢は海の彼方、太陽が沈む死の国近くにあり、象牙の門から出てくる夢は、偽りを伝えるものとされている。
ix 時Timeと永遠eternityはほぼ同義で使われているようだ。この世はすべてを朽ちさせる時が権力を握っていて、有限な存在のわれらは時には抗えない。でも、聖書の一節に「心を入れ替えて子どものようにならなければ、天国に入ることはできない。自分を低くして、この子どものようになる人が、天国で一番偉いのだ」とあるように、「永遠の子ども」という表現からはワイルドの謙虚さと前向きな思想が窺える。


※ 日夏耿之介訳『ワイルド詩集』(新潮文庫、1936年)を参考にした。



★オスカー・ワイルド Oscar Wilde
オスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルズ・ワイルドOscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde(1854-1900)は、イギリス植民地下のアイルランド・ダブリン生まれの詩人、小説家、劇作家。代表作は『幸福な王子』『ドリアン・グレイの肖像』『サロメ』など。


※『ツェルノビィツ通信』第3号(2010.10月刊)より
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# by Fujii-Warabi | 2010-11-05 14:30 | 英詩・アイルランド詩・英語詩

NAPの感想、つづき

NAPのつづきを書こうと思いつつなかなかで、今頃になってしまった。
すみません。

NAPは何が良かったかというと、やはり町の地図が変わったということ。私は少し方向音痴で、部分的にしか地図が頭に入らないのだけれど、それが何か大きな広がりを持って、心の中で違った像が描き直された感じがした。
町歩きの何が楽しみかというと、やはり他にはないものを発見することだ。私は奈良人だと思っているので、観光客向けの「奈良らしさ」には関心はない。その「奈良」を打ち破る新芽のようなエナジーが、NAPの一番の魅力で、日々わくわくさせられっぱなしだった。そして、作品たちの詩的な問いは今も私を刺激し続けている。

ブログで以前取り上げられなかったけれど、今もイメージが残っているものについて少し書いてみたい。

★中尾めぐみ 「どこか」
 暗い色を使いながら、深い森のように心を落ち着かせる作品だった。一日の終わりに森を歩いて、少しずつほぐされてゆく感じ。森は得体がしれないものも奥深くに秘めているけれど、それゆえに心をそのままに包み、受け入れてくれる包容力がある。
昼から夜へ、公の世界から個人の世界へ、人間からそのままの自然へ、意識から無意識へ、そのはざまにある大気を通り抜けて、「無心」へと帰ってゆくような感じを受けた。
この世界は見えるものより、見えない大気的なものによって動いているのではないだろうか。人の心はまさにそうだし、普段意識しないで生きているが、大気的なものは絶えず動いてすべてが変化している。私自身も大気的なものを言葉で描きたいと思っているので、彼女の作品に心惹かれた。

★川野安曇 「the moist view」
 空なのか、湖なのか、とじっと観ていたのだが、いかようにも見えてくる。それが不思議だった。心の残像を描いているようにも見える。ありそうで、この世にはない場所。
会場のmeuble barは、木のぬくもりあるハイセンスで静かな隠れ家である。家具職人がマスターで、隣は工房。絵がなくても素敵な場所だが、絵が空間に一体となって息をしていたような印象が残っている。
そのなかでも、絵が物語を語るように、私の心に強く残った一枚の絵があった。湖が決壊しそうなくらい満ちていて、何があるかわからないあちら側へと溢れようとしている。空はそれを大らかに見ている。悠久の時のなかの何かとても美しい瞬間。
彼女の絵はシンプルであるがゆえに、すんなりと想像が滑り込んでゆく余白があり、心地よかった。

 川野安曇展は今、大阪で開かれています。 10/25~11/6 2kw gallery http://www.kalons.net/index.php?option=com_content&view=article&id=4078&catid=0&lang=ja

★大乗院庭園

 あいにく雨の天気だったのだけれど、しっとりしたなかで見ることができたのもよかったかもしれないと思う。中島麦展は円い窓から外を眺め、そして絵を観て、というのを何度も繰り返した。葉書のような無数の絵の重なりによって、日々を重ねる人生のことを思った。人生は旅だ。時が過ぎるのは少し切ない。でも、刹那が重なって心に蓄積され豊かになっていることに気づくときがある。それは、個性的な作品や人に向き合うときだ。違った経験をしても響きあえるものがあるからだ。
彼の作品は色彩が多く、そんな豊かさも享受できた。

 山田七菜子展のほうは、こちらはまたアバンギャルドだった。自分ももっと自由でいいのではないかと思えた。妖精たちが踊っているところに飛ぶ絵の具。これはアトリエで床に敷いていたから絵の具がついたのだと彼女は語ってくれた。汚れも時が流れないとつかない。そして、偶然の要素が必要だ。でも、そのまま会場に持ってきて、作品にしてしまうのが何より面白かった。コラージュもあまり計算がなくて、作家本人の楽しさが溢れているような感じ。穏やかな空間というわけではなかったのだが、七菜子さんのほんわかした人柄にも惹かれて、おしゃべりしてけっこう長居した。


   ★  ★  ★

 meuble bar、cafe sample、デザインワークスタジオという「場」の発見も嬉しかった。「場」がないと、生まれるべきものも生まれてこない。そこで、人と交わした温かいものはずっと私の心に残っていて、またあんな時間が来ないかな・・・とふと思っている。
 風邪をひいて、突然に私のNAPは終わってしまったことが残念だったけれど、奈良のこの新芽がこれからぐんぐん伸びてゆくシーンを見ていたいなと思う。詩と絵画・造形・パフォーマンスはジャンルが少し違っても、根本は何も変わらなくて、作家さんといると色々な刺激を受け、自分のなかに新たな芽が生まれてゆく。また、皆さん、どうぞよろしく。次の芸術祭では何かしてみたいです。
 NAPに感謝しています。スタッフの皆さん、本当にお疲れさま、どうもありがとうございました。


(たどたどしい幼稚な文章ですみません。)
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# by Fujii-Warabi | 2010-10-28 02:21

Halloween

The Wembley Crownでハロウィンパーティー 19:00~
仮装してきたお客さんはドリンク10%OFFです。

http://wembleycrown.com/
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# by Fujii-Warabi | 2010-10-27 16:24 | イベント

近況

約二週間前に体調を崩してから、筆が遅い。
NAPのこともつづきを書こうとずっと思っているけれど、
起きていられる時が短くて(睡眠障害で眠りっぱなし)、パソコンに向かえる時間がない。

今日は目覚めてみて、少し良くなっていることに気づいた。
ありがたい。

悪い時期でも、孤独や痛みについて色々と考えた。
身体的な障壁はそのまま心の障壁になる社会はどうか?とも思った。
辛い時期こそそれまでどのように生きてきたか、人と関係を築いてきたのかが試される。
私は幸いにして、心には救いがあった。
会いたい人がこの世にまだいて、やりのこしたことがあり、
そして文学があった。
うちからほとんど出られないので、寝転んで
『嵐が丘』を読み、キェシロフスキーの『デカローグ』を観た。

You're okay.というためには I'm okay. でなくては、
と私は力んでしまったりする。
でも、辛いときは相手が You're okay.(そのままでいいよ。) と言ってくれることが自然なのではないかと思う。
『嵐が丘』も『デカローグ』も身勝手で苦悩の多い人がたくさん出てくる。
でも、作家はそんな人物を愛しているのだ。
時代も国も隔たっていても、作品を通して、人と心が通じる、愛される、
そんな感覚が私を救ってくれる。
日常をこつこつと生きることの大切さを伝えてくれる。

私は今回の不調のなかでも、自分のことがきらいではなかった。
善悪の判断と少し距離を置くことができたのかもしれない。
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# by Fujii-Warabi | 2010-10-21 13:03 | 身辺雑記

横たわった壁掛け時計

    横たわった壁掛け時計~擬態美術協会さんへのオマージュ


 〈右の時計〉

あなたとわたしが出逢ったのは
 この時間の中
わたしはあなたの美を愛したけれど
 それはわたしの美でもあった

瓜ふたつのわたしたちは数秒の違いも許せなくなり
脚を引っ張りあう

同じ場所に
二つの時計はいらないの

 〈左の時計〉

あなたと過ごす時はぼくたちのつくる時間
ぼくはきみの醜さも愛したけれど
 それはぼくの醜さでもあった

瓜ふたつのぼくたちは
共にいる理由も離れる理由もなくなり
手を繋いだまま引っ張りあう

隣で同じ鼓動を刻むのに
なぜこんなに遠い
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# by Fujii-Warabi | 2010-10-15 18:07

NAPの感想

今日も秋晴れですね~。
奈良アートプロムで奈良は熱くなっています。
想像をはるかに超す面白さで、奈良が好きになってきました。
いつもとは別の町に見えます。

もう二十ヶ所廻ったでしょうか。でも、まだ足りません。全部観たいと思ってしまいます。
ここでも観た作品すべてを語りたいのですが、今はちょいと無理なので、
印象に残ったものを少しずつあげてみようと思います。

◎カイナラタクシービル

まず建物が面白い。作品はこの箱の子どもたちのよう。
奈良・盆地がテーマにされていたのですが、表現方法がみんな違うので楽しめます。

三好剛生さんのコウテイペンギンからは共生することの肯定的意味を感じ、
塚本佳紹さんの「愛と表面張力」からは芸術(あるいはその生き方)とはムーブメントと愛であるというメッセージを熱く語られたようで、とても印象に残りました。

◎藤田和孝 奈良の仏たち (修徳ビル・一階ロビー)。

私は仏像にあまり興味はないので、藤田さんの絵のほうがいいと思いました。
藤田さんの作品はどれも独自の表現で、筋の通った美を感じます。
どこまでも前衛、革新的であります。
年を重ねてもかくありたいものです。

◎擬態美術協会+鍵豪 ならまち格子の家/sample white room

うーむ。とかく凄い。
何度も観たくなる作品。観ているとどんどん姿が変わる作品。
スペース自体が芸術であり、怖いのに美しく、長居してしまいます。
そのせいか「格子の家」では「この人が作者?」という目で見られてしまいました。

二人の作品は表現方法が違う分、補完しあうかのように見事にマッチしています。
格子の家では、鍵さんの作品から音と強烈な光、擬態さんのほうは静寂です。
sampleでは、擬態さんが青白い光とへんな音、鍵さんは赤い光と闇です。

時間を忘れてさせるような空間、
それでいて実にリアル。
擬態さんの格子の家の作品は、離れていれば視覚的な美(それもナチズムのような美)を感じるのですが、こちらに向かってくるとドキリとします。
自分が受けるのは拒絶したいものでも、他人事であるときには美しく見とれたりする、、、
人間の心の怖さを問われているように感じました。

sample のほうも、また不思議。
同じ時計二つと、レコード二つ。どちらも糸で引き合って、身動きできなくなっています。
それでも、時計さんは恋人同士のよう。愛しあっていても、うり二つの性格ゆえにうまくゆかなくなっているみたいです。
レコードさんのほうは怖い!
現代生活のように、同じ動きを延々と繰り返させられ、全曲を奏でることは許されません。
針が同じ所を通り、そこが摩耗してゆきます。
私には「痛い痛い」と聞こえてきて、糸を切りたくなりました。
(展示会が終わるまでのあと数日の辛抱よ、と心で呟きましたが、
痛みに耐えつづける「強制労働者」に、そう言うのは残酷としか言えません。
死ぬまでの辛抱よ、とさらに痛みを与えるようなものです。)

ご覧になっていない方には書きすぎ、と言われてしまうことでしょう。
すみません。

鍵さんのほうは擬態さんよりイメージ的なものを重視されているのかな、と感じました。
sampleでは下には整然と並ぶ電球たち。
上の電球は自由に下がっています。
でも、よかったのは、その間でした。 そこに何かがあって、
それは何なのか、しゃがみながらじっと考えていました。
下の電球はがっちり組み合っているので、突き上げては来ないでしょう。
上の電球が思い思いに落ちてくるのでしょうが、それはいつ、なんのためなのか?
下の彼/彼女らをガツンと割って解放するためでしょうか。
謎です。

格子の家の作品も、まだもう少し考えてみたいです。

NAPのモバイルマップはこちら
http://nara-art-prom.com/map/index.html
(ガイドマップには訂正個所がいくつかありますので、こちらをご覧ください。)

(つづく)
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# by Fujii-Warabi | 2010-10-08 15:06 | イベント

『紫陽』22号

『紫陽』22号はもうお手元に届きましたか?

今回、ボリュームは控えめ。
寄稿者20名、52頁。読みやすいのではないかと思います。

☆詩作品
O柳 「赦路(しゃじ)の月」
藤井わらび 「黒い犬」
小林坩堝 「歩行訓練」
倉田めば 「水の地図」「メタポジション」
芦田みのり 「草の海」
亰彌齋 「松茸味のぜんまいは露草の涙に絆されて」
野村尚志 「なんで奈良の大仏ちごて鎌倉の大仏なんや」
武中光男 「青空」
小池栄子 「いつまでも」
竹村正人 「考察 その弐 -Yさんに」
佐藤駿司 「(孤独とひきかえに……)」「宣告」
松本タタ 「何度目かの神話」
風梨子 「駅 3」
うなてたけし 「夏季の日々」
笠原美香子 「ぞうになった海亀」
三刀月ユキ 「たべる」
石瀬琳々 「訪れ」
あおい満月 「描く」「いのちという証明」
北山兵吉 「あ~ァ」「退職を目前に」
☆俳句
志郎

☆見返しの言葉:オクタビオ・パス「二つの声のためのソロ」
☆表紙コラージュ:藤井わらび

編集:藤井わらび・京谷裕彰  発行:紫陽の会  
頒価:200円 年鑑購読料:1000円(送料込)
frieden22★hotmail.com (★を@へ換えてください)
[郵便振替口座] 00950-5-246315 [加入者名]藤井わらび

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# by Fujii-Warabi | 2010-10-05 00:21 | 紫陽の会

もうすぐ、NAP!

随分ながらくご無沙汰しており、すみませんでした。
夏バテしていました。
今は私にはちょうどよい季節で、シャキッと目覚めた感じです。

『紫陽』は26日(日)に竹村君の助けも借りて製本し、
今は発送準備に精を出しております。
今週中に発送する予定ですので、もうしばらくお待ちください。

この秋は奈良で一大イベントがあります!
10/2(土)~10/11(月・祝)に奈良アートプロム(略称NAP)という
実に危険で魅力的な芸術祭が街全体で開かれるのです。
詳細はこちら⇒ http://nara-art-prom.com/
(ですが、スケジュールの詳しいことはまだ書かれていません。
なので、「Gallery out of place」 http://www.outofplace.jp/G.OoP/TOP.html
へ直接、出来立てのガイドブックをもらいに行ってください。)

ちなみに『紫陽』メンバーの詩人・亜子米さんやうなてたけしさん、machi/さん(本業はパフォーマンスアート)は10/10(日)14:30~17:00 奈良女子大学記念館(旧本館)にて
「時の庭~百年ピアノと共に」という様々なジャンルのコラボレーションイベント(無料、要予約⇒ akobeyjp@yahoo.co.jp)を開催されます。
二部では、『紫陽』読者会の会場として使わせていただいた
八百屋「ろ」の主人・高橋秀夫さんの朗読もあり、
非常に楽しみで、今からわくわくしています。
http://akobey.site90.com/ringo/info/index.php?entry=entry100531-071021
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# by Fujii-Warabi | 2010-09-29 01:34 | イベント

浜木綿

              吉原 幸子

あなたは立っている 蒼ざめて
まるで 咲いたときから枯れているようなはかなさで
うすい夕陽の
うすい影を砂におとして

小さな島の 岩場ごしに
海鳴りをきいているのは わたし?
海風に 白いからだを
やさしく揺すっているのはあなた?

ほろびてゆく種族(いのち)の孤独を
うすむらさきの芯にあつめて

松の苗木のむごい焼けのこりや
ちらばっているあきかんなどを
柵のなかから ひっそり眺めて

あなたは立っている
まるで はじめての日から肌寒かった うすい夏に
うすい影をおとすわたしの前に


※『魚たち・犬たち・少女たち』(サンリオ出版、1975年)


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何か涼しい詩を、と思ったのですが、
結局はかない作品をセレクトしてしまいました。

「うすい」の繰り返しが効果的で、他のはかない物たちと響き合っている感じがします。
でも、これだけ淋しい言葉を集めても、絶望的ではない。
本当の孤独とはそんなものなのかもしれないと思いました。
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# by Fujii-Warabi | 2010-08-20 18:04 | 芸術鑑賞

『紫陽』22号

『紫陽』22号の原稿締切日は8月10日(火)です。

詩作品は2篇まで。投稿時に、タイトルがわかるように記載してください。

寄稿者一覧に自己PR等を掲載したい場合は160字まででお願いします。

参加料の入金等も期日までにお済ませください。

その際、何冊購入されるのかを振込用紙に記入してくださると助かります。

紫陽の会はこの一年で財政が厳しくなりましたので、カンパもよろしくお願い致します。
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# by Fujii-Warabi | 2010-08-05 16:20 | 紫陽の会

視よ、蒼ざめた馬あり、これに乗る者の名を死といい……

 七月二十日。
 わたしは目をとじて横になっている。あけ放たれた窓から通りのざわめきが聞こえ、石の町がおもくるしくあえいでいる。エルナが爆弾をつくっているのを、わたしは夢うつつで感じている。
 ほら、彼女がドアに鍵をかけ、錠がにぶい音をたてる。彼女はゆっくりとテーブルにちかづき、ゆっくりと火をつける。鉄板のうえには灰白色の粉末――雷酸水銀がある。ほそく青い焰、蛇の舌が鉄をなめまわす。爆発性の粉末が乾いていく。紛粒がぱちぱちとはじけては、ときおり弱く光る。ガラスのうえを鉛のおもしが転がる。このおもしが鉛の管をうち砕く、すると爆発はおこるのだ。
 すでに同志のひとりがこの作業中に死んだ。部屋には彼の屍体、屍体の断片、つまり飛び散った脳漿や、血まみれの胸腔や、ひきさかれた手足がのこされ、このすべてが荷馬車で警察署に運ばれた。エルナもおなじ危険にさらされている。
 そう、もしじっさいに爆死したら? 亜麻色の髪とおどろいたような空色の目ではなくて、赤い肉片が転がっているとしたら?・・・・・・そう、そのときは、ワーニャが爆弾をつくるだろう。彼も化学者である。彼ならこの仕事をやりおうせるだろう。
 目をあける。真夏の日ざしがカーテンをとおしてはいり、床に照りはえている。わたしはふたたびまどろみ、それからまた、おなじ考え。ゲンリッヒはどうして爆弾を投げなかったのか? どうしてだ?……ゲンリッヒは臆病者ではない。しかし、過ちは恐怖よりわるい。それとも、これは偶然なのか? どうにもならぬ偶然なのか?
 いずれにせよ、どうでもいいことだ。すべて……どうでもいいことだ。ゲンリッヒのテロ参加がわたしの責任なら責任でいい。総督の命びろいがゲンリッヒのせいならせいでいい。エルナが爆死し、ワーニャがフョードルが処刑されるならされるでいい。どのみち総督は殺されるだろう。わたしがそう望んでいるからだ。

                               ロープシン『蒼ざめた馬』(川崎浹訳、岩波現代文庫)より



memo

 ロープシン(1879-1925)はロシアのテロリスト作家である。社会革命党(エス・エル)でテロ指揮者として活動し、モスクワ総督やセルゲイ大公らを暗殺している。
 ロシア革命後も同様の活動をつづけた。それは、「ボリシェヴィキが憲法制定会議を無視して一挙に独裁権力を目ざしたため」だ。レーニン・スターリンの宿敵となった詩人はこうして滅んでゆく。

 『蒼ざめた馬』はそんな戦闘のなかにいた人物が書いたとは思えないほど、繊細で抒情的な作品だ。いや、しかし、冷徹なまなざしがある。人を殺しながらも、いつも命に向き合い、「愛のための殺人」という矛盾をそのままに抱えていたのだろう。

 「過ちは恐怖より悪い」。それは、「過ち」は行為の未遂であり、「恐怖」は感情の後退であるから。私たちの生活では、だいたい逆だと思う。「恐怖」を克服すれば、次は「過ち」を糧にできる。でも、テロリストに「次」はないのだ。大きな権力を敵とする彼らは、その一瞬一瞬に成功しなければ、根こそぎ刈りとられてしまう。
 刹那の限界を生きる、それは詩でもある。


 岩波現代文庫には翻訳者・川崎浹さんのロープシン論も収録されており、これが大変興味深い。また、この方の訳はしずかで、素晴らしいと思う。


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# by Fujii-Warabi | 2010-07-28 15:36 | 詩人・芸術家の紹介

Seamus Heaney 'Fiddleheads'

Fiddleheads
                                  Seamus Heaney


Fiddlehead ferns are a delicacy where? Japan? Estonia? Ireland long ago?

I say Japan because when I think of those delicious things I think of my friend Toraiwa, and the surprise I felt when he asked me about the erotic. He said it belonged in poetry and he wanted more of it.

So here they are, Toraiwa, frilled, infolded, tenderized, in a little steaming basket, just for you.


† from ”District and Circle”[Farrar, Straus and Giroux,2006]



   フィドルヘッド 
                              シェイマス・ヒーニー


ゼンマイは珍味だって どこの話?  日本?エストニア?古代アイルランド?

それは日本の話。ぼくはあの美味しいものを想う時、友人の虎岩さん、それからエロスについて訊ねられたときの驚きを想い出す。彼はそれは詩の中にある、だからそれをもっと読みたいと言っていた。

ほら、小さなザルで蒸し、柔らかにくるっと巻いた、産毛のゼンマイです。
虎岩さん、あなただけに差し上げましょう。

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註ⅰ fiddlehead とは、ゼンマイなどの渦巻状若葉のこと。ヴァイオリンの頭部
装飾に似ていることに由来する。
ⅱ  虎岩正純(1932年生まれ)… 早稲田大学名誉教授。英詩、アイルランド
現代詩、比較文化などが専門。

※訳は村田辰夫・坂本完春・杉野徹・薬師川虹一訳『郊外線と環状線』(国
文社、2010年) 参照。

                                   若かりしヒーニー→
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# by Fujii-Warabi | 2010-07-07 17:20 | わらび・シダ植物の詩歌

サッカーを観ていて

ワールドカップも後、数試合を残すところとなりました。

楽しいサッカーや様々な逸話が好きで、アフリカや中南米を応援していましたが、
どこも負けてしまい、本当に残念です。

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写真は、ブラジルのドゥンガ監督。
ベスト8止まりだったので解任されるそうですが、
任期中はほとんど負けなしでした。
ドゥンガ氏はJリーグの功労者でもあるので、
監督として来日してほしいものです。
規律を重んじるスタイルは日本に合うと思います。


ドゥンガ監督は私と同じ誕生日で(ファンバステン、レアル・マドリッドのグティも同じ。マラドーナは一日早いだけ。みんな蠍座!)、
親近感があるのですが、ついこの前気づいたこと。
耳が妖精です!
初めてこんな耳を見ました。
「ドゥンガ」とは、子どもの時に付けられたニックネームで、「白雪姫と7人のこびと」のこびと「おとぼけ(dopey)」に由来するとか。
この耳のせいだったのかと、一人納得しました。
私も耳がちょっと変わっていて、
「悪魔の耳」と言われたこともあったので、ますます親近感が…。

どうでもいい話です。。
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# by Fujii-Warabi | 2010-07-06 12:05 | 身辺雑記

『ブライト・スター』を観て

一昨日、『ブライト・スター いちばん美しい恋の詩』という映画を観た。
『ピアノ・レッスン』の監督ジェーン・カンピオンによるジョン・キーツの伝記映画である。

まず、俳優が地味でよかったと思った。
キーツ役がもし流行りのイケメンハリウッドスターなら
この類の映画は成り立たない。
俳優の個性がきつければ、ストーリーや詩の朗読が心に迫ってこないだろう。

そして、詩の加え方もよかった。
ストーリーもわかりやすかったが、
複雑な感情が控えめに表現されていて、
佳作だと思った。

監督のキーツや詩への愛が感じられる美しい作品である。


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# by Fujii-Warabi | 2010-06-19 00:34 | 芸術鑑賞

とかげちゃん。

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うちの団地の階段踊り場に居たとかげちゃん。
おめめがまんまるであんまりにもかわいいので、
のどと頭をなでなで。
それにしても、しっぽがながいですね。

庭に降ろしてあげようとつかんだら泣かれてしまったので、
かばんに乗っけて運びました。
本当はうちの中で毎日眺めていたかったのですが、、、

また会えますように。

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# by Fujii-Warabi | 2010-06-05 16:40 | 身辺雑記

『紫陽』21号について

『紫陽』21号は編集が少々遅れましたが、
明日には発送がすべて終わる予定です。
もうしばらくお待ちいただければと思います。

もし、6月半ばまでにお手元に届かない場合は
藤井のほうまでご連絡をお願い致します。
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# by Fujii-Warabi | 2010-06-03 20:00

ゾーン


漂い ただ寄ってゆく
"幸福"という名の神なる魔物のほうへ
人はいつも水のなかで眠り
おぼろげな夢のなかで望みに気づく

人影もなく 黒い不吉な犬がよぎる
でも気にしちゃいけない
そいつさえも生き物であり
同伴者となりうるのだから

人生はみな暗い洞窟だ
自分の声より
先に歩いた見えない者の声が響いている

私は何を想っている?
石を投げる
何が返ってくるか?
期待したとおりでは退屈し
予期せぬ事態には焦り戸惑う

愛は神聖な場所にはない
法則もない
痛みを負う覚悟なしにもない
近づいたと自負すれば
また振り出しに戻っている
〈愚か者〉なのだ


※アンドレイ・タルコフスキー『ストーカー』を観て
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# by Fujii-Warabi | 2010-05-20 11:03 | 藤井わらびの詩

小さな夢をみた


シャガールのように
羽のない私の薔薇が飛翔する
ほんの小さな夢をみた
雪がしとしとと降り始める夕べ
明日は銀世界
そんな奇蹟の足音を待つ気持ちで

ぼくも わたしも
重ね合う手のぬくもりのように
一瞬"はかなさ"がゆるむ

ほんの小さな夢をみた
雪待草が春を待てず
雪の雫を真似て顔を出す
夜空にはすべてを超え自由に翔ぶ恋人たち

いつか溶ける という
不安の潮が引いて
朝日を迎えいれるような

束の間の夢をみた
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# by Fujii-Warabi | 2010-05-20 10:53 | 藤井わらびの詩

『TOYBOX2010』の朗読会

バイリンガル詩集『TOYBOX2010』の完成記念朗読会が、
6月6日に開催されます。
東京・萩窪駅付近の「カフェクラブ石橋亭」にて
午後2時より開演。

この詩集自体が面白いので、詩が立ち上がってくる瞬間は更に魅力を増すことでしょう。

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以前掲載した『TOYBOX2010』の記事はこちら
http://warabipoem.exblog.jp/13987153/
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# by Fujii-Warabi | 2010-05-07 13:49 | イベント

映画

明日からシネ・ヌーヴォーでタルコフスキーとカネフスキーの映画上映が始まります。
http://www.cinenouveau.com/sakuhin/tarkovsky/tarkov_top.html

少し映画館から足が遠のいていたので、
どれか観てみたいと思っています。

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            犬に食われて倒れている老人の図…………ではないでしょうね。
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# by Fujii-Warabi | 2010-05-07 13:02 | イベント

「谷内薫作品展Ⅱ鏡花水月」を観て

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波のような、貝殻のような、椰子の葉のような、
艶めかしい生き物のような、残された跡形のような、
硬質なのにしなやか、あるようなないような、
谷内薫の作品たち。


遠くから潮騒がきこえて
その余韻のうちに、書いてみました。

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 「谷内薫作品展Ⅱ鏡花水月」
4/27(火)~5/9(日) 10:00~19:30
京都文化博物館別館 アートン アートギャラリーにて
http://www.arton-kyoto.com/events.php
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# by Fujii-Warabi | 2010-05-05 14:38 | 詩人・芸術家の紹介

ポーラ・ミーハン「不眠症」

Insomnia
Paula Meehan


Pale under the moon
through the glass
his limbs still
and soon
before stormclouds pass
over the house and fill

it with darkness she'll slip
in beside him
as into a pool.
Warm ripples will lap
her thighs, brim
her breasts, spool

her close and free
her mind of the trouble
that her kept her late
by the fire, a fragrancy
of applewood, to struggle
with her fate

which has always been
to leave what is familiar,
trusted, known,
for the half-seen
shadow world, far
beyond the human zone.



†“The Man who was Marked by Winter” (The Gallery Press, 1991, Ireland)所収。





  不眠症     
                ポーラ・ミーハン
                藤井わらび訳

窓から差し込む
月光のもと
彼の手足はそっと
青ざめてゆく
嵐雲が屋上を通り
あたりを暗闇で満たす

その直前、彼女は滑り込むだろう
彼のそばに、
まるでプールに入るかのように。
あたたかい細波(さざなみ)が腿(もも)を包み
胸いっぱいに注ぐ
そして リールに巻き取るだろう

彼女の結末を。
その心は解き放たれるのだ、
暖炉の傍で夜更けまで
悩ませた問題―
林檎の木の芳香から、
また

慣れ親しんだもの
任されたもの、知らされたことを、
人間の区域をはるかに越えた
半分しか見えない陰の世界のために
いつも置いて行かねばならない
運命との苦闘から。


※『紫陽』第19号(2009.9刊)掲載
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# by Fujii-Warabi | 2010-04-25 21:45 | 英詩・アイルランド詩・英語詩

詩誌『詩悠』第2号発刊

武甲書店さんの詩誌『詩悠』第2号に私の詩「光り輝くもの」が掲載されていますので、
ご関心をお持ちのかたは、
http://www.bukou-books.com/
をご覧ください。

久々に日常生活のスケッチを含めたわかりやすい作品を書きました。
私はベタさも好きなので、ついそういうものになりがちなため、日常の詩は避ける傾向にあります。
でも、それではいかん!と今は思っています。
難しい言葉も構成も使わず、それでいて深い作品も追求してみたいものです。


しかし、『詩悠』に『紫陽』と、響きが姉妹のようですね。
同じ音同志が集まりあう…と昔、言霊の本で読んだことを思い出します。
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# by Fujii-Warabi | 2010-04-25 21:35 | その他の詩誌

壁紙を変えてみた。といっても、春の恒例行事。

  花さそふ 嵐の庭の 雪ならで
    ふり行くものは わが身なりけり


桜が散ると切ない
という感じもするけれど、私は次の新緑の季節のほうが好きなので、「あ、葉っぱが出てきた」と思うのだ。
いつもそう。卒業式にも泣いたことがない。
今の状態に満足できないので、未来はもうちょっと努力したら、満足できる状態を引き寄せられるという気になるのだ。
体は旅に向かないぶん、心はいつもタロットの「愚か者 THE FOOL」のように、明日へと旅してゆく。
春は新たな旅立ちのとき。わくわくする。


それから、オスカー・ワイルドを想い出す。
彼の詩は、春の歌だ。
日夏耿之介訳の「ワイルド詩集」もいいのだが、いかんせん古いので、
この先人の美しい訳を参考にしつつ、訳詩にまた挑戦してみようと思う。

春。
メキシコの俳優ガエル・ガルシア・ベルナル初監督の映画『太陽のかけら』を昨日、観た。
編集やカメラワークなどまだ改良の余地があるかもしれないとは思ったが、
おそらく観安さを考慮して、こういう作りになったのだろう。
それはさておき、内容が良かった。
使用人と主人によって階級差を表すのは文学・映画においての常套手段だが、崩壊する楽園の主は意外に純朴な人物、先住民系の使用人は癖のある魅力的な人物を配置し、それが興味深かった。
使用人の名はアダン。人間の祖・アダムがここでも楽園から追放されて、苦役を負っている。だが、楽園崩壊を陰で笑い、ノマド的に渡り歩いて行く。最後に主役クリストバルが楽園、恋人、おそらく妹もすべて失い、茫然自失の状態で立ちつくす姿がギャッツビーのようだ。
監督はイギリスで本格的に演劇を学んでいるので、こういう文学的な深さを「大衆映画」にも含ませられ、しかも自分が主役を張ることもできるのだろう。
有名なかっこいい俳優が資本主義批判を恋愛ドラマとして見やすく仕立て、世界に発信することの大切さを想う。
監督としての旅立ちに乾杯。
レンタル・ビデオ屋のカスタマーズ・レビューは酷評しているが、もっとこういう視点から批評されてもいい作品と言えよう。
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# by Fujii-Warabi | 2010-04-22 15:29 | 身辺雑記

イダヅカマコト氏による「名前を呼ぶ」評

 ポエムコンシェルジュ・イダヅカマコトさんが私の詩「名前を呼ぶ~ガザへ~」の評を書いてくださっています。
加害者側のイスラエル元兵士の話を思い出したとのことで、自分の身に引きつけ、とても丁寧に読んでくださっています。
私は日本人として侵略者側にある者として、日常の中ですべきことを考え、書きました。
結局、〈帝国〉の戦争は、〈帝国〉の拠点で、内部の人間が現状のシステムを崩してゆくことでしか終わらせることはできないのだと思います。
それを感じていただけたことが有り難いことです。

貴重なガザの映像が紹介されていますので、併せてご覧ください。
http://archive.mag2.com/0001086342/20100329190000000.html
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# by Fujii-Warabi | 2010-04-06 10:49 | 藤井わらびの詩

『パリ、テキサス』を観て~自己の在るべき時空を失って~

 一週間前の土曜にEU協会による上映で、ヴィム・ヴェンダース監督作品『パリ、テキサス』(1984年)を観た。まず、このタイトルが不思議だと思った。パリとテキサスが舞台なのかと思いきや、パリは全く映されない。そういえば、私が観たヴェンダースの映画二作『ベルリン・天使の詩』『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』も場所へのこだわりがあったことに気づいた。
 『パリ、テキサス』は空間・時間をテーマに据えた作品だろう。主人公・トラヴィスがテキサスの砂漠で倒れるシーンから始まり、大都会ヒューストンのビル街に消えてゆくシーンで終わるのが象徴的だ。トラヴィスは最初何も語らない。そして、どこへ向かうのかもわからないまま逃れるようにして、ひたすら灼熱の砂漠を歩く。ヤクザな診療所で手当を受けるが、そこからも逃れ、迎えに来た弟のウォルターからも逃れようとする。医師は生を管理する者でもあり、弟は兄想いではあるが、宣伝の看板を描きマイホームの支払いに追われる平凡な郊外生活者なのだ。トラヴィスは彼らから逃れたいのはもっともではないか、と最後に描かれるトラヴィスの愛し方・生き様を見れば、理解できるような気がしてくる。
 では、彼はどこへ逃れたいのだろう? 彼にも具体的にはわからないのだろうが、映画の中で暗に示されているように思う。彼は言葉を回復する(記憶/自己を回復してゆく)途上に車の中で、「テキサスのパリ」を撮った写真を弟に見せる。「パリに行ったことがあるか?」というのが失語症状態の彼が発した最初の言葉で、次には「パリに行きたい」と言うのだ。この「テキサスのパリ」という小さな町・記憶は彼の父と母が結ばれた、彼の起源となる場所・時間であり、4年前に大都会ですべてを失った彼はどうやらこの小さな出発点に還ろうとしていたようなのだ。
 では、約8年分の記憶を遡り、言葉と記憶を大方取り戻した彼は、最後にヒューストンでまた一人になるが、どこへ向かうのだろう? 彼はおそらくもう「パリ」を探しはしないだろう。彼は愛する人といた時もトレーラーで放浪していた。本来的に根無し草的に彷徨う旅人なのである(それは古典的アメリカ人を象徴しているようだ)。また、これは1984年の作品なのだが、ヒッピーのいた革命の時代も過ぎ去り、あらゆるものが商品化された大量消費社会の爛熟期、もう逃れる場所はない、都市で生きるより他はない、ということを意味するのかもしれない。
 彼は「所属」から逃れつつも、責任からは逃れてはいない。彼の職業は明らかにされないほど、彼自身も重きを置いてはいないようだったが、それはこの消費社会を作る一員に組み込まれることへの拒絶でもあるのだろうし、それでは「逃走」だけなのかと言えば、関係が壊れるほどに妻を愛し、子を妻の元へと戻そうと無謀ともいえる行動を起こすように、情が深く、自分自身を求める「活動」に熱心なのだ。だからこそ、彷徨わねばならないのである。そして、そこに心の彷徨える私も魅かれるのだ。

 この作品は恐れ入るほど対比が効果的に使われている。まず、タイトルの「パリ」「テキサス」も両者のイメージはまるで逆のものだ。そして、最初のシーンの青い砂漠とクライマックスの赤とピンクの服の登場人物たち。無謀なトラヴィスと消費社会ともうまく折り合ってゆく着実な弟ウォルター、アメリカ人で若い妻ジェーンと弟の妻でフランス人で落ち着いたアン。トラヴィスとジェーンと息子ハンターという彷徨える旅人体質の家族とウォルターとアンという定住型の平凡だが温厚で家庭的な夫婦(トラヴィスの方に子があり、ウォルターに子がなく、未来を象徴する子どもは放浪者のほうを選らんだという設定が興味深い。監督の想いがここに表れているように思う)。広大な砂漠・大都市と狭い車・覗き部屋。トラヴィスは広大な場所では無口だが、車や弟の家や覗き部屋やコインランドリーといった狭い空間では話す(つまり観客が彼らの大きく重い過去を知るのは狭い場所である。ほとんどがトラヴィスやジェーンの独白となるので劇場を観ているような気分になる。覗き部屋の場合はさらにそれを覗くのだから、入れ子構造といえるだろうか)。トラヴィスはテキサスを彷徨いながらも小さなパリを探し、ヒューストンという大都市で妻という一人の女を捜す。

 恋愛、夫婦、親子といった愛の描き方もとても興味深い。こちらはこちらで重要なテーマであるし、トラヴィスは「愛の囚われ」からも逃れようとしていると思われるので、展開してみたい気がするが、今はこれ以上書くゆとりがないので、またの機会にしたい。
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# by Fujii-Warabi | 2010-04-04 00:12 | 芸術鑑賞

最近観た映画~レネ、カウリスマキ、川端など

 私は元々映画好きだが、映画は視覚・聴覚を過剰に刺激して頭から離れなくなるので、少し前までは観るのを控えめにしていた。それがこのところ良質な映画を観る機会が多く、様々なことを考えさせられた。

 先月末、ベルナール・スティグレール著『〈象徴〉の貧困』で第二章を丸々割いて語られたアラン・レネ監督作品『恋するシャンソン(みんなその歌を知っている)』を観て、解説を聴き、語り合う機会があった。文化的に貧困だと思っていた奈良でも、こうした良質な映画の上映運動を地道に続けている団体があり、驚いた。
 あの後ゆとりがなくて、この映画についてここでは書くことができなかったが、誰でも観ることのできる娯楽的要素とこの社会の根底を描く深い思想を兼ね備えた優れた作品で、今も強く印象が残っている。現代を覆う「不安」とは何なのか?どこから来るのか?現代とはどういう時代なのか?この危機をどうやって超えてゆけばいいのか?を考えさせられた。芸術・文学を志す人には特に観てほしい映画である。

 先週は、フィンランドの巨匠アキ・カウリスマキ監督の映画『過去のない男』をレンタルDVDで観た。
以前カスタマーズレヴューを読んで、良し悪しを何とも判断しがたく、レンタルするには少々迷ったことがあったが、ペドロ・アルモドバルの映画『ボルベール〈帰郷〉』を観る際に、その前のCMでカウリスマキの敗者三部作と呼ばれるうちの最終作『街のあかり』が流れ、6回ぐらい再生、CMなのにハマってしまった。早速レンタルしようとしたところ、貸し出し中だったので、空いていた『過去のない男』のほうにした。
(『ボルベール』のほうはまた、アルモドバルを語る時に書きたいと思う。)

 『過去のない男』は2002年のカンヌ国際映画祭でグランプリと主演女優賞をダブル受賞した作品なのだが、「大作」と呼ばれるような映画が絶対映さないような「排除されたもの」をふんだんに描いていて、美しい。
名前も記憶も財産も失った丸裸の主人公の男が、やはり国家から見放された〈貧者〉に助けられ、少しずつ再生してゆくという物語。(フィンランドのような福祉国家であれ、人は名前とそれなりの身分を持つ「何者か」でないと、国家に暴力を振るわれるのだ。)
 しかし、人はどんな苦境でも生きてゆかねばならない。では、どうすればよいのか。カウリスマキは、希望を失わず期待しすぎず、生活のなかで共同とアイデアとユーモアを持って生きるとことを提案をしているように思えた。
 こんな映画を日本へと届けてくれる映画人が今、どれぐらいいるだろうか。私はこの一本ですっかりカウリスマキに魅せられてしまった。

 川端康成原作、衣笠貞之助監督の前衛映画『狂った一頁』(1926年)を活動弁士つきで、やはり日仏協会や京都・奈良EU協会といった映画上映運動をされている方々の主催によって、観る機会に恵まれた。
 まず、活動弁士・吉岡一郎氏が同年代ぐらい、と若いのに驚き、映画を見始めたころはこの人物が気になっていたのに、のめり込んでゆくと映画の音声となって聞こえてきたのが不思議だった。活動弁士は凄い職業だと思う。芸術・文学・歴史といった知識、詩・小説を書く才能、講談師・エンターテイナーとしての資質が要る。こういう仕事にもっと光を当ててほしいものだ。
 作品のほうも、とても革新的な内容だった。映像もどのようにして撮影されたのかわからないシーンがあったり、テーマとしても〈正気〉〈狂気〉の境目を壊すというようなものだった。
私たちは「狂人だ」と名指されることなく日常を過ごせているから、自分を「正常」だと思っているに過ぎないのだろう。誰のなかにも〈狂気〉は存在し、それは人をその人たらしめる重要な個性だと私は思っている。だから、川端が、精神病院に閉じ込められた「精神病者」への差別を描き、能の笑い面を彼らに被せ、解放で結んだことに胸が熱くなった。

 映画のことを書き出すとつい長くなる。疲れてきたので、つづきはまた数日後。
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# by Fujii-Warabi | 2010-03-29 23:38 | 芸術鑑賞

今日の映画

今晩6時より京都・奈良EU協会主催で
ヴィム・ヴェンダース監督映画『パリ、テキサス』(1984年、145分)が上映されます。
会費300円、場所はJR奈良駅徒歩5分のワルハラ
http://www.nara-zenei.com/walhalla/index.html
にて。
この映画についてもっと知りたい方は、ピエール・シルヴェストリ氏の記事をご覧ください。
http://eurokn.seesaa.net/article/143941888.html
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# by Fujii-Warabi | 2010-03-27 11:09 | イベント

『紫陽』21号

『紫陽』21号の原稿締切日は後二週間後の4月10日(土)です。
よろしくお願い致します。

講読・投稿に関するお問い合わせは 
http://warabipoem.exblog.jp/4726034/
をご覧の上、藤井のほうまでメールをいただければ助かります。
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# by Fujii-Warabi | 2010-03-27 10:58 | 紫陽の会