<   2010年 04月 ( 5 )   > この月の画像一覧

ポーラ・ミーハン「不眠症」

Insomnia
Paula Meehan


Pale under the moon
through the glass
his limbs still
and soon
before stormclouds pass
over the house and fill

it with darkness she'll slip
in beside him
as into a pool.
Warm ripples will lap
her thighs, brim
her breasts, spool

her close and free
her mind of the trouble
that her kept her late
by the fire, a fragrancy
of applewood, to struggle
with her fate

which has always been
to leave what is familiar,
trusted, known,
for the half-seen
shadow world, far
beyond the human zone.



†“The Man who was Marked by Winter” (The Gallery Press, 1991, Ireland)所収。





  不眠症     
                ポーラ・ミーハン
                藤井わらび訳

窓から差し込む
月光のもと
彼の手足はそっと
青ざめてゆく
嵐雲が屋上を通り
あたりを暗闇で満たす

その直前、彼女は滑り込むだろう
彼のそばに、
まるでプールに入るかのように。
あたたかい細波(さざなみ)が腿(もも)を包み
胸いっぱいに注ぐ
そして リールに巻き取るだろう

彼女の結末を。
その心は解き放たれるのだ、
暖炉の傍で夜更けまで
悩ませた問題―
林檎の木の芳香から、
また

慣れ親しんだもの
任されたもの、知らされたことを、
人間の区域をはるかに越えた
半分しか見えない陰の世界のために
いつも置いて行かねばならない
運命との苦闘から。


※『紫陽』第19号(2009.9刊)掲載
[PR]
by Fujii-Warabi | 2010-04-25 21:45 | 英詩・アイルランド詩・英語詩

詩誌『詩悠』第2号発刊

武甲書店さんの詩誌『詩悠』第2号に私の詩「光り輝くもの」が掲載されていますので、
ご関心をお持ちのかたは、
http://www.bukou-books.com/
をご覧ください。

久々に日常生活のスケッチを含めたわかりやすい作品を書きました。
私はベタさも好きなので、ついそういうものになりがちなため、日常の詩は避ける傾向にあります。
でも、それではいかん!と今は思っています。
難しい言葉も構成も使わず、それでいて深い作品も追求してみたいものです。


しかし、『詩悠』に『紫陽』と、響きが姉妹のようですね。
同じ音同志が集まりあう…と昔、言霊の本で読んだことを思い出します。
[PR]
by Fujii-Warabi | 2010-04-25 21:35 | その他の詩誌

壁紙を変えてみた。といっても、春の恒例行事。

  花さそふ 嵐の庭の 雪ならで
    ふり行くものは わが身なりけり


桜が散ると切ない
という感じもするけれど、私は次の新緑の季節のほうが好きなので、「あ、葉っぱが出てきた」と思うのだ。
いつもそう。卒業式にも泣いたことがない。
今の状態に満足できないので、未来はもうちょっと努力したら、満足できる状態を引き寄せられるという気になるのだ。
体は旅に向かないぶん、心はいつもタロットの「愚か者 THE FOOL」のように、明日へと旅してゆく。
春は新たな旅立ちのとき。わくわくする。


それから、オスカー・ワイルドを想い出す。
彼の詩は、春の歌だ。
日夏耿之介訳の「ワイルド詩集」もいいのだが、いかんせん古いので、
この先人の美しい訳を参考にしつつ、訳詩にまた挑戦してみようと思う。

春。
メキシコの俳優ガエル・ガルシア・ベルナル初監督の映画『太陽のかけら』を昨日、観た。
編集やカメラワークなどまだ改良の余地があるかもしれないとは思ったが、
おそらく観安さを考慮して、こういう作りになったのだろう。
それはさておき、内容が良かった。
使用人と主人によって階級差を表すのは文学・映画においての常套手段だが、崩壊する楽園の主は意外に純朴な人物、先住民系の使用人は癖のある魅力的な人物を配置し、それが興味深かった。
使用人の名はアダン。人間の祖・アダムがここでも楽園から追放されて、苦役を負っている。だが、楽園崩壊を陰で笑い、ノマド的に渡り歩いて行く。最後に主役クリストバルが楽園、恋人、おそらく妹もすべて失い、茫然自失の状態で立ちつくす姿がギャッツビーのようだ。
監督はイギリスで本格的に演劇を学んでいるので、こういう文学的な深さを「大衆映画」にも含ませられ、しかも自分が主役を張ることもできるのだろう。
有名なかっこいい俳優が資本主義批判を恋愛ドラマとして見やすく仕立て、世界に発信することの大切さを想う。
監督としての旅立ちに乾杯。
レンタル・ビデオ屋のカスタマーズ・レビューは酷評しているが、もっとこういう視点から批評されてもいい作品と言えよう。
[PR]
by Fujii-Warabi | 2010-04-22 15:29 | 身辺雑記

イダヅカマコト氏による「名前を呼ぶ」評

 ポエムコンシェルジュ・イダヅカマコトさんが私の詩「名前を呼ぶ~ガザへ~」の評を書いてくださっています。
加害者側のイスラエル元兵士の話を思い出したとのことで、自分の身に引きつけ、とても丁寧に読んでくださっています。
私は日本人として侵略者側にある者として、日常の中ですべきことを考え、書きました。
結局、〈帝国〉の戦争は、〈帝国〉の拠点で、内部の人間が現状のシステムを崩してゆくことでしか終わらせることはできないのだと思います。
それを感じていただけたことが有り難いことです。

貴重なガザの映像が紹介されていますので、併せてご覧ください。
http://archive.mag2.com/0001086342/20100329190000000.html
[PR]
by Fujii-Warabi | 2010-04-06 10:49 | 藤井わらびの詩

『パリ、テキサス』を観て~自己の在るべき時空を失って~

 一週間前の土曜にEU協会による上映で、ヴィム・ヴェンダース監督作品『パリ、テキサス』(1984年)を観た。まず、このタイトルが不思議だと思った。パリとテキサスが舞台なのかと思いきや、パリは全く映されない。そういえば、私が観たヴェンダースの映画二作『ベルリン・天使の詩』『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』も場所へのこだわりがあったことに気づいた。
 『パリ、テキサス』は空間・時間をテーマに据えた作品だろう。主人公・トラヴィスがテキサスの砂漠で倒れるシーンから始まり、大都会ヒューストンのビル街に消えてゆくシーンで終わるのが象徴的だ。トラヴィスは最初何も語らない。そして、どこへ向かうのかもわからないまま逃れるようにして、ひたすら灼熱の砂漠を歩く。ヤクザな診療所で手当を受けるが、そこからも逃れ、迎えに来た弟のウォルターからも逃れようとする。医師は生を管理する者でもあり、弟は兄想いではあるが、宣伝の看板を描きマイホームの支払いに追われる平凡な郊外生活者なのだ。トラヴィスは彼らから逃れたいのはもっともではないか、と最後に描かれるトラヴィスの愛し方・生き様を見れば、理解できるような気がしてくる。
 では、彼はどこへ逃れたいのだろう? 彼にも具体的にはわからないのだろうが、映画の中で暗に示されているように思う。彼は言葉を回復する(記憶/自己を回復してゆく)途上に車の中で、「テキサスのパリ」を撮った写真を弟に見せる。「パリに行ったことがあるか?」というのが失語症状態の彼が発した最初の言葉で、次には「パリに行きたい」と言うのだ。この「テキサスのパリ」という小さな町・記憶は彼の父と母が結ばれた、彼の起源となる場所・時間であり、4年前に大都会ですべてを失った彼はどうやらこの小さな出発点に還ろうとしていたようなのだ。
 では、約8年分の記憶を遡り、言葉と記憶を大方取り戻した彼は、最後にヒューストンでまた一人になるが、どこへ向かうのだろう? 彼はおそらくもう「パリ」を探しはしないだろう。彼は愛する人といた時もトレーラーで放浪していた。本来的に根無し草的に彷徨う旅人なのである(それは古典的アメリカ人を象徴しているようだ)。また、これは1984年の作品なのだが、ヒッピーのいた革命の時代も過ぎ去り、あらゆるものが商品化された大量消費社会の爛熟期、もう逃れる場所はない、都市で生きるより他はない、ということを意味するのかもしれない。
 彼は「所属」から逃れつつも、責任からは逃れてはいない。彼の職業は明らかにされないほど、彼自身も重きを置いてはいないようだったが、それはこの消費社会を作る一員に組み込まれることへの拒絶でもあるのだろうし、それでは「逃走」だけなのかと言えば、関係が壊れるほどに妻を愛し、子を妻の元へと戻そうと無謀ともいえる行動を起こすように、情が深く、自分自身を求める「活動」に熱心なのだ。だからこそ、彷徨わねばならないのである。そして、そこに心の彷徨える私も魅かれるのだ。

 この作品は恐れ入るほど対比が効果的に使われている。まず、タイトルの「パリ」「テキサス」も両者のイメージはまるで逆のものだ。そして、最初のシーンの青い砂漠とクライマックスの赤とピンクの服の登場人物たち。無謀なトラヴィスと消費社会ともうまく折り合ってゆく着実な弟ウォルター、アメリカ人で若い妻ジェーンと弟の妻でフランス人で落ち着いたアン。トラヴィスとジェーンと息子ハンターという彷徨える旅人体質の家族とウォルターとアンという定住型の平凡だが温厚で家庭的な夫婦(トラヴィスの方に子があり、ウォルターに子がなく、未来を象徴する子どもは放浪者のほうを選らんだという設定が興味深い。監督の想いがここに表れているように思う)。広大な砂漠・大都市と狭い車・覗き部屋。トラヴィスは広大な場所では無口だが、車や弟の家や覗き部屋やコインランドリーといった狭い空間では話す(つまり観客が彼らの大きく重い過去を知るのは狭い場所である。ほとんどがトラヴィスやジェーンの独白となるので劇場を観ているような気分になる。覗き部屋の場合はさらにそれを覗くのだから、入れ子構造といえるだろうか)。トラヴィスはテキサスを彷徨いながらも小さなパリを探し、ヒューストンという大都市で妻という一人の女を捜す。

 恋愛、夫婦、親子といった愛の描き方もとても興味深い。こちらはこちらで重要なテーマであるし、トラヴィスは「愛の囚われ」からも逃れようとしていると思われるので、展開してみたい気がするが、今はこれ以上書くゆとりがないので、またの機会にしたい。
[PR]
by Fujii-Warabi | 2010-04-04 00:12 | 芸術鑑賞