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フランシス・ポンジュ「かたつむり」について

今日は快晴。こんな日はのんびり散歩でもしたいのですが、体調があまり思わしくありません。私の病気はどうやら慢性疲労症候群(Wikipediaに解説あり)といわれるものらしく、全身に力が入らず寝転んでばかりです。抗うつ剤に負けて以来胃腸が弱っているので、食べた後は横になって数時間消化を待たねばならない状態です。もちろんそうでもないときもあるのですが…。
治療法は確立していないのですが、内臓に負担を掛けないように菜食にし少食・朝食抜きがよいようです。たしかに空腹になると症状は出ません。不眠や微熱は治ってはいませんが、頭も体もすっきりします。

昨日、再びフランシス・ポンジュを読みました。「かたつむり」という詩がよかった。私はポンジュのなかでも「貝殻系」の作品が好きなようです。小さくてちっぽけで、普段は人間(とりわけ大人)の目に止まらない生き物ですが、その生を肯定し賛歌するという、ミクロの世界のスケールの大きさを描いているような感じがたまりません。
長い詩なので特に気に入った所を抜粋してみます。


 孤独、あきらかにかたつむりは孤独だ。あまり友達がいない。だが、幸福であるために友達を必要とするのではない。彼は実にうまく自然に密着している。密着して、完全に自然を楽しんでいる。かたつむりは、全身で大地に接吻する大地の友だ、葉の友だ、敏感な眼玉をして昂然と頭をもたげる、あの空の友なのだ。高貴、鷹揚、賢明、自尊、自負、高潔。

                   ……中略……  

 非常で緩慢な、確実でもの静かなこの前進の態度以上に美しいものはない。しかも、彼らが大地に敬意を表して、これ程みごとに滑ってゆくためには、どんな努力が払われているのだろう! 全く、銀色の航跡を引く細長い船舶そのままなのだ。特に、もう一度あの傷つきやすさや非常に敏感な眼玉のことを考えてやるならば、この前進の態度は、じつに堂々としているのだ。

                   ……中略……

 だが、おそらく、彼らは自己表現の必要を感じていないだろう。彼らは芸術家、つまり、芸術作品の制作者であるというより、―――むしろ、主人公であり、いわばその存在自体が芸術作品である存在なのだ。
 しかし、ここに、私が述べるかたつむりの教訓の主要な点の一つがある。それは彼らに特有なものではなくて、貝殻をもった生物がすべて共通してもっている教訓なのだ。彼らの存在の一部分であるこの貝殻は、芸術作品であると同時に記念碑なのだ。そして、それは彼らよりずっと永く残るのだ。

                   阿部弘一訳『物の味方』(思潮社、1971年)

 この作品が1936年、パリにて書かれたということも重要でしょう。
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by Fujii-Warabi | 2008-03-25 10:24 | 詩人・芸術家の紹介

城戸朱理さんの『紫陽』への評

少し前の話になるのですが、
『紫陽』を再び城戸朱理さんがご自身のブログ
http://kidoshuri.seesaa.net/article/88494116.html
で取り上げてくださっています。
「その最新号も、変わらぬエネルギーに満ちている。」
とのこと。ありがたいお言葉です。
また、巻頭詩の後藤和彦「朝の道」を引用し、一言の評を書いてくださっています。
ご覧ください。

次の『紫陽』の原稿締切日は4月10日(必着)です。
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by Fujii-Warabi | 2008-03-15 10:40 | 紫陽の会

先日の詩の朗読会

寒い。まだ2月と変わらない寒さ。
しかしどうも自律神経の調子が乱れている。春が近いということを体は知っているのだろう。

先日、友人・むらびと君宅で詩の朗読・鑑賞会があった。
(この記事を書くのが遅すぎて、先にコメントをくださっている皆さんごめんなさい。でも、コメントがあったから、この記事があるのです…。)
私が読んだ詩は、田村隆一。
田村のエッセイには凹んだときに助けられた。晩年の詩はエッセイのような調子なのだが、私はちょっと格好をつけた「荒地」時代より好きなのだ。


 1999
                  田村隆一

蟻の話をどこかで聞いた
蟻は働き者の象徴だと思いこんでいたのに
それがまったく違うのだ

たとえば
餌をせっせと運んでいるのは
十匹のうち
たったの一匹
あとの九匹は前後左右をウロウロしているだけ
さも忙しそうに
活力にあふれて
怠けているんだって

ぼくも蟻になりたくなった
九匹の蟻の仲間に入って
ときどき
観念的な叫び声をあげればいい

それにもっと驚くべきことは
蟻の睡眠時間である

たった二時間だけ目をさましていて
たっぷり二十二時間眠りこけている
「1999」

という詩集が出してみたい
もしそれまでに生きていられたら
たっぷり十八年間 ぼくは

蟻のように眠っていて
黙々と餌を運びつづける一匹の蟻の
精神異常の診断書を書いてみたい

今日の仕事はこれで終り
では
おやすみ


   夢の中の逆夢
                          田村隆一

業種別にすると
病院はサービス部門である
ベッド数も人口比にするとアメリカの四倍もあるという
家にはベッドの数が不足しているからか
ベッドがたりないくせに
ダイニングルームとキッチンだけが大きくなった
水屋がある茶室まであるくせに
夫は三畳の小部屋の小学生用の机でエズラ・パウンドの詩集に読みふけっている
夫の職業は大学の英文学の教師で
飼っていたウサギもさすがにあきれて
ウサギはウサギ小屋から逃亡してしまった
そこで英語の先生は
音楽とフランス文学に凝っている愛嬢のために
エドワード・リアの『ノンセンスの贈物』を訳してやった

 ベージング町のおじいさん
 びっくりするほど落ちついて
 馬を一頭買い込んだ
 そこで夢中で駆けだして
 故郷のひとから逃げだした

ニッポンのカマクラ町のおじいさんも
去年の秋はサービス業種である病院に逃げこんで
ウイスキーのかわりに点滴のサービスを受けたっけ
となりの部屋では飲み友だちのキツネ博士が点滴を受けていて
二人で溲瓶をぶらさげてトイレットからもどってくると
六十円の紙コップのコーヒーを飲みながら
来るべき高齢化社会の人口構成と国際経済の分析と展望について語りあったっけ
「六十五歳までを生産人口とすると……」
キツネの経済学博士がおごそかに発言すると
ぼくは思わずつぶやいた
「じゃ、六十五歳以上の人間は消費人口ということになるけど、消費するだけが生きがいというわけか。なるほど、目だけパチパチさせて、息を呼吸しているだけで、社会資本を消費するわけだからな」
キツネ博士はさかんに数字や数値を並べたてたが
肝機能の数値以外は
みんな忘れてしまったよ
一日も早く消費人間になりたいものさ
目だけパチパチ
その目だって老眼だから女はみんな美人に見える
口でパクパク息をして
歯もなくなっているから万事楽になる
社会資本を喰いつぶすのが唯一の道楽
耳が遠くなるから
どんな批判も反批判も気にしないですむ
ひとの悪口だけ云っていればいいのだもの
そのためにはレトリックを磨こう
詩は青春の文学だなんて後進国の嘘っ八だ
目がかすみ
耳が遠くなり
口からヨダレがたれてこなかったら
詩は生まれない
詩の懐胎は消費人間の特権だ
文明のストックを喰いつぶせ
第二次世界大戦前夜
フランスがナチス・ドイツと手を組んで
ソビエイト・ロシアを打倒するプログラムまで組んだのは
文明のストックのせいだ
ニッポンには消費する文明のストックがないのだから
消費人間にはやりきれない
労働は悪だ
全能なる神はおのれが全能でないことも知りつくしているはずである

労働が善なるもの
というのは稲作民族の思想である
労働なき社会がヨーロッパ的遊牧民族の夢なら
ぼくらの夢はまさに
逆夢さ

労働は悪である
勤勉は悪そのものである
こんどの世界大戦は
アルゼンチン・タンゴにのって
百万ペソの紙幣が乱舞する
南半球でやっておくれ


※『現代詩文庫111 続々・田村隆一詩集』(思潮社、1993年)


私もかく老いたいものである。
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by Fujii-Warabi | 2008-03-05 22:04 | 詩人・芸術家の紹介