カテゴリ:芸術鑑賞( 34 )

新国誠一展とアバンギャルド・チャイナ展

以前から関心が高かった「新国誠一の《具体詩》~詩と美術のあいだに~」展に昨日行って来た。
詩が絵画のようで壁に掛けておきたいな、と思う詩もあり、「詩」に固定観念を持っている人には新国の詩は衝撃であるにちがいない。
先に観た人から聞いた話より、ずっと上品でハイセンス、「正統派」な印象を受けた。
白というキャンバスのせい、だけではなくて、おそらく新国は洗練された詩人だったためだろう。
耳が悪いので、声による詩はあまり聴き取れなくて残念だった。

「アヴァンギャルド・チャイナ-〈中国当代美術〉二十年-」展は、新国誠一展のついでにというふうで、気楽に観るつもりが、こっちのほうにハマってしまった。
すごいパワフルで、風刺の精神がビシバシ伝わってくる。しかも表現が豊かで、飽きない。
中国のことをあまりよくわからないままに来たことを恥じた。
本来、芸術とはこういうエネルギーに満ちた民衆のものだったはずだ。中国では革命が起こる、それを芸術から感じることができた私は幸せ者だと思う。

ともに大阪中之島国立国際美術館にて22日まで。
http://www.nmao.go.jp/
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by Fujii-Warabi | 2009-03-15 17:58 | 芸術鑑賞

亜子米さんの朗読ライブ

ご無沙汰してしまいました。すみません。
例年より早く春先の不調が来てしまい、2月はめまいやら体の硬直やら不眠やらで寝込んでしまいました。鬱々と過ごした揺り返しで、最近ハイになりよく眠れません。ブログも書く気マンマンですが、疲労していて頭が支離滅裂。自分が何をしているのかもよくわからなくなります。

話は変わって、
先日、『紫陽』17号にも寄稿してくださった亜子米さんの朗読ライブに行って来ました。奈良市内のギャラリー「OUT of PLACE」会場だったのですが、ここがまた素敵なところで、白い壁に圧迫感はなく何でも描けるような自由を感じました。
詩の朗読は、私は左耳が難聴のため音が妙に反響することもあって苦手なのですが、亜子米さんのはちがいました。
素朴で素晴らしいオーラが出ていて、こちらも素直に自分のすべてを開け、体が響き合っているような感じ。もやもやとした不調が抜けて、詩的なエネルギーを注入されていくよう心地よさをたっぷり味わいました。本当に不思議な体験でした。どうもありがとうございました。
彼女はもともと絵描きさんなのですが、朗読をはじめてからギタレレも弾きはじめられたそうです。絵も言葉も音楽も自分を伝える手段というより、亜子米さん自身の体が自然や本来の愛を媒介する手段として謙虚に宇宙のひとつとしてあるようで、改めてシャーマンなのだと納得しました。

★亜子米さんのHP http://akobey.site90.com/
★Gallery OUT of PLACE http://www.outofplace.jp/G.OoP/TOP.html

またギャラリーに集った方々が楽しい作家さんが多くて、
ついつい話しすぎてしまいました。
なかなか芸術を語れる場所がないので、ここは貴重ですね。
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by Fujii-Warabi | 2009-03-04 16:05 | 芸術鑑賞

河津聖恵さんの詩集、オスカー・ワイルドなど。

なんとはなく憂鬱である。
最近あまり外へ出ない(出られない)ので日光不足なのかもしれない。
うちにいるとついついお菓子を食べてしまい、
どうやらチョコレート中毒になってしまったようで、
断酒ならぬ断チョコ中。
甘いお菓子もほとんど抜き。
今日で3日目。
1日目は足が震えていたが、今日は大丈夫のよう。
その代わりにワインを飲んでいる。
アル中にならないか?と思ったが、
これは大丈夫。
50mlも飲むと体がうけつけないので。
この量だと体が暖まって心地がいい。

食べもののことが頭をまわるのがいやで
昨日は詩を読んでいた。
河津聖恵さんの『神は外せないイヤホンを』と
オスカー・ワイルドの「Roses and Rue (To L.L.)」。
河津さんの詩からは世界に向かい合う真摯な姿、誠実さが溢れていて
詩集は白い魚のよう。
鋭さとやさしさが地下水脈からこんこんと湧いてくるようで
自分の心が洗われていくような清々しさがある。
私にはまだまだ遠い、憧れの詩です。

河津さんは「詩のテラス」というブログをされていますが、
そこで『紫陽』のことも書いてくださっています。
http://maruta.be/terrace_of_poem/102

オスカー・ワイルドのほうは朗読CDを聴いて、その美しさに心打たれた詩で、
原詩と日夏耿之介をつき合わせながら読んでみた。
その美しさは日本語には置き換えられない、
というのはわかった話だからいいのだけれど、
初歩的な文法の間違いによる翻訳ミスのため
原文で読んだ方がわかりやすい。
この詩は悲恋の詩で、オスカー・ワイルドが同性愛者であったのがよい。
男性が女性への愛をうたった典型的なものは
私にはしっくりこないので。
男女問わず読める恋愛詩の古典だと思う。
(いつか友人達と英詩を読むちょっとした集いを持つのが今の夢。)
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by Fujii-Warabi | 2008-12-23 16:28 | 芸術鑑賞

キェシロフスキー映画『デカローグ』

ご無沙汰しております。
最近、不調でひきこもりしています。
こういうときはことばもでなくて、書き言葉どころか話す言葉も出てきません。
…でもこれを書いているということは少し脱しつつあるのでしょう。
ただ数百㍍歩いているだけで右脇腹が痛くなるほど体が歪むので憂鬱になります。

(先月末の話。)
そんなときにはうちで映画。
ポーランドの監督・キェシロフスキーの『デカローグⅢ、Ⅳ』、オルミ、キアロスタミ、ケン・ローチのオムニバス『明日への切符』をレンタル。
キェシロフスキーは私が一番好きな映画監督で、『デカローグ』を借りるのは2度目。
この映画は「十戒」をテーマにした作品で、つまり10作のシリーズものです。
予算がつかず、一本一時間のテレビ向けに制作、「ある愛に関する物語」「ある殺人に関する物語」は傑作とされ、劇場用に編集しなおしたバージョンもあります。
今回観たのは、「あるクリスマス・イブに関する物語」と「ある父と娘に関する物語」。前者が印象深く、主演女優の演技にも惹きつけられたのですが、今回は後者のほうがうまくできた作品のような気がしました。
「娘」が演技指導を受けるシーン、眼鏡を合わせるための検診のシーンなどが本筋と直接関係がないだけに詩的で、テーマと微妙に絡み合いつつもこれ自身で光っていました。(このあたりキェシロフスキーと趣味が合うな…。) また、光の映し方も深みがありました。

『デカローグ』シリーズは「十戒」をテーマにしながら、今のカトリック的なものでなく、逆に「宗教」とはなんなのかを突き付けるような内容です。そのため、「弱い人間」がたくさん出てきて、多くの罪を犯します。「不倫」「殺人」「盗み」「重ねてゆく嘘」など。でも、それはもともとの旧約聖書で描かれている人間像なのです。この映画は現代の聖書です。
キェシロフスキーは個人を徹底して描きつつ、誰をも責めません。「愛」「赦し」が宗教の一番の理由なのです。
ポーランドは20世紀、「政権」と「カトリック教会」が権力となり、人々の内面をも支配してきました。キェシロフスキーは映画制作に介入してくる権力に負けずに(時に「妥協」しながら)、ソ連・東欧崩壊までボーランドでポーランドを舞台に映画を撮り続けた希有な監督です。「当時、民衆だけが味方だった」と彼は振り返っていましたが、この映画も「カトリック的」でなく、教会や批評家たちに相当バッシングされたようです。そこまでして監督が伝えたかったものは普遍的なテーマで、この映画は歴史に残る名作でしょう。スタンリー・キューブリックは生前、「この20年間で一番素晴らしい映画」と讃えていました。

『明日への切符』も同様に傑作でしたが、疲れたのでまた次回。
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by Fujii-Warabi | 2008-12-09 22:44 | 芸術鑑賞

佐伯祐三展-パリで夭逝した天才画家の道-を観て

ポエム・バザールの前に書きたかったのですが、ゆとりがなくて遅くなってしまいました。
先週の水曜(8日)、天王寺にある大阪市立美術館で佐伯祐三展を観てきました。平日というのにけっこう人が多く、年代も様々。美術館としては落ち着いたいい所なのでゆったりできるのか、それとも佐伯祐三ファンは熱烈なのかわかりませんが、じっくりと時間をかけて観ている人が多かった気がします。絵画や美術品が好きなのは当たり前ですが、私はその場自体が好きで、また観客もその場をつくっているものとして観察するのが好きです。(単に人を観察するのが好きという理由もあるけど。)
とにかく佐伯祐三展は凄かったです! 佐伯は1898年生まれ、1928年没、ととても短い生涯ではありましたが、ずっしりと重く、オリジナルを求める苦悩や孤独が滲み溢れ出るような画ばかりでした。パリ時代の絵が一番評価されているようで、私も好きなのですが、没後80年大回顧展だからこそどのようにして、あれらの絵が生まれてきたのかが、順を追いながらわかるようになっています。芸術は厳しく追い求めなければ得られないものだと語っているようで、それだけに佐伯の志半ばのあまりにも早い死に涙が出てきました。運命は残酷です。
今回の展覧会でわかったのは、佐伯は広告自体を実はメインに描いていたのではなかということ。背景の建物はキリッと聳え立つ感じなのに対して、広告は色鮮やかで文字は楽しげに躍っています。あとカフェの風景を描いたものも同じく、箱のほうより椅子やテーブルといった中味が踊っています。寒色の建物は佐伯の近くにあった死、あるいは佐伯自身の孤独や憂鬱を、暖色の広告や踊る文字は再び巴里に来られた幸運・幸福、また生のよろこびを表しているような気がしました。
しかし、泣きながらみている人はさすがにいなかったですね。それもちょっとした驚きでした。

佐伯祐三展は10月19日(日)まで。 大阪市立美術館 http://www.city.osaka.jp/museum-art/
06-6771-4874
おそらくこんな回顧展は20年先までないかと思います。
ただ美術展の途中に椅子がないので、コインロッカーに鞄を預け、少し休んでから観た方がよいでしょう。それから、図録は2200円ですが、よくできているのでお買い得です。
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by Fujii-Warabi | 2008-10-16 15:46 | 芸術鑑賞

モディリアーニ展を観て

先日、大阪中之島の国立国際美術館でモディリアーニ展を観た。
この画家に特に関心はなかったのだが、春ぐらいに調子を崩していて随分美術館から遠ざかってしまったので「美術館に行きたい」という欲求が足を向かわせた。私は「美術館」という場所がまず好きなのだ。そんなわけで実に気楽な気分で出かけた。
顔も首も全身長~い絵ばかりがずらっと並んでいた。はじめは妙だなと思っていたのだが、それが当たり前の人間の姿であるように思えてきて、マジックにはまってしまった。ほとんど女の肖像画か裸体。
そうそう、小さな子ども連れの夫婦がいて、子どもにお父さんがタイトルを読んであげていた。「嘆きの裸婦」とお父さん、「ラフってなに?」と男の子、「裸の女の人のこと」とお父さん。ある展覧会にモディリアーニが作品を出品すると、「風紀を乱す」とかの理由で警察に却下されたぐらいの裸の絵なのである。親子の会話がなんだか面白くて、くすっと笑ってしまった。
私が一番気に入った絵は最愛の妻を描いた「大きな帽子をかぶったジャンヌ・エビュテルヌ」。モディリアーニの絵はあまり表情がないのだが、この絵は控えめですました表情に見え、逆に二人の関係が表現されているような気がする。幸せな感じなのだ。
たまに関心のさほどないものも観たり読んだりすると逆にいい刺激を得られるようで、有意義な週末だった。
モディリアーニ展は9月15日まで。http://www.nmao.go.jp/
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by Fujii-Warabi | 2008-08-11 22:35 | 芸術鑑賞

ポール・エリュアールPaul Eluardについて

エリュアールの詩はなにがどうという風に細かく解釈することは困難なのだが、わたしがエリュアールにとても魅力を感じるのは、詩が外へと大きく開いているというところ、そして、イメージの繋ぎによって訴えるその力の大きさだ。「大きい」と二度も書いたが、エリュアールの詩はたっぷりとした海のようだ。「象徴の貧困」を克服してゆくためにもわたしはイメージやサンボリズムをもう一度見直すべきだと日頃から言っているが、エリュアールのような詩がこの時代にこそ必要ではないかと思う。
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by Fujii-Warabi | 2007-10-03 16:03 | 芸術鑑賞

吉原幸子「背景」を鑑賞して

    背景
                    吉原 幸子

夕暮れの海辺を 散歩する
堤防に ふたり よりかかると
贈られたばかりのポラロイド・カメラの
赤いシャッターを もうひとりが押す

空はまだ グレイブルーに
横縞の淡い雲を なびかせてゐたのに
印画紙に浮かびあがるふたつの顔の 背景は
真夜中のやうに暗い

小さな磯料理店で
コーヒーを飲んでゐるうち
海はすっかり暮れ終わったが
ふと見ると 写真の中で空がすこし明らんでゐる
みつめてゐるとわからない速度だけれど
また見ると またすこし明らんでゐる
まるで 一枚の紙のなかで
夜が明けはなたれてゆくやうに!

 *

思い立って あくる朝
海の夜明けを待ち構へる
(ふとんの中から ガラス越しに)
空いっぱいの印画紙を
グレイブルーに淡紅色を混ぜながら
ゆっくりと現像してゆく
見えない大きな手を 眺める

わたしは宗教を信じない
けれど あの瞬間
たしかにあの薄明の中にゐたふたりを
潮風の匂ひや海ネコの声といっしょに
〈世界〉といふ印画紙に焼き付けてくれた
カメラでない方の 大きな手を
たとえば 神 と呼んでみてもいい
わたしたちの明日に 幸や不幸の
どんな風景がのこされてゐるのかを
きっと その神も知らないだろから

そしてむろん
神 のファインダーからのぞけば
あのときのふたりの想ひも 体温も
海と空との ささやかな背景
に過ぎなかったのだらうが


※『ブラックバードを見た日』(思潮社、1986年)

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吉原さんの詩をブログに掲載し、横書きにしてしまうと全く違う詩のように感じられ申し訳ない気持ちになる。
私は詩の収められた詩集『ブラックバードを見た日』が大好きで、特にこの詩は彼女のエッセンスが詰まった作品だと思う。色のイメージが効果的に使われ、爽やかなのに少し物悲しい。
また、ポラロイド・カメラという現代文明により生まれた機器に対して「神」という存在を語るといった内容がこの詩人らしい。そして、最後の連には人間中心でない詩人の世界観が窺える。
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by Fujii-Warabi | 2007-06-27 15:51 | 芸術鑑賞

映画『コマンダンテ』の紹介

オリバー・ストーン監督の映画『コマンダンテ』が大阪・九条のシネ・ヌーヴォーで6月23日より公開されます。監督自らがフィデル・カストロにインタビューした貴重なドキュメンタリー映画です。詳細は  
シネ・ヌーヴォー http://www.cinenouveau.com/index2.html
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by Fujii-Warabi | 2007-06-15 16:41 | 芸術鑑賞

キャス・ウォーカー「過去」

   過去              
                  キャス・ウォーカー
                  白石かずこ 訳


過去が死んだなんて誰にも云わせないことにしよう

過去とはわたしたち そして内なるもののすべて

部族たちの記憶に出没したもの

わたしは知る このつかのまの今を
このたまさかの現在というものも
わたしのすべてではなく 何者か長い年月につくられた 過去の豊饒なのだと

こんや この郊外居住者地区の中に わたしもいて座る
電気ストーブの前 かんたんな椅子にすわり
炎の赤に暖められ わたしは眠りに墜ちる

わたしは遠のいていく
そこは繁みの中の キャンプの火
わたしたちのホントの種族がいて、地べたにすわっている
わたしのまわりには壁がなく
わたしの上には星たちがいっぱい
高い まわりを囲んでる木たちは風の中で
ゆれ動き 彼ら木たちの音楽を奏でる

わたしたちにやってくる夜のやわらかな叫び
そこでわたしたちは一体となる すべての
古(いにしえ)からの大自然に生きるものと
それを知るものも 知らないものも
わたしたちは この風景に属しているのだ
今 み捨てられてはいるものの

深い椅子 電気ストーブ
それは昨日 始まったばかりの
だが千も万もの森のキャンプの火たち
それこそは わたしの血なのだ

誰もわたしに云ったりはしないで
過去は行ってしまったなどと
現在(いま)とは 時間の中のほんの小さな一部
わたしをおおいかぶすほどの
すべての歴史の年月の中の
ほんの ちいさな ひときれ

※思潮社『現代詩 ラ・メール』創刊号(1983年7月)



この詩の作者、キャス・ウォーカーはオーストラリアのアボリジニだそうだ。
最近、この詩をたまたま目にして、現代人はこういう考えや感覚を失ってしまったから滅びつつあるのだろうと思った。自分たちは自分たちの意志や努力で存在するのではない。地球や自然や動植物が存在し、その中に人間やその中のわたしが存在する。
人間は地球を支配した気になっているが、それは支配欲が強いためで、他の種族より知的であるからでもないし、もちろん人間のために地球や命が存在するからでもない。
現代人は「すべての歴史の年月」を消費しているから一見豊かに見えるだけで、そのツケはこれからいやというほど払わされるだろう。しかも、それは消費している本人ではなく、いつも<弱者>や<マイノリティー>に回されるのだ。
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by Fujii-Warabi | 2007-02-28 14:40 | 芸術鑑賞