金時鐘のことば

たけむらびと君より

金時鐘『原野の詩』 扉ことば

「詩はぜいたくだ」とは、小説を書く友人、O氏の警句である。費やされる時間の割りには、造られる量が作品的に小さすぎるというのだ。指摘を待つまでもなく、それこそ得手勝手に、割りの合わないことをくり返してきたこととはなっている。そこで考えるのだが、果たして“詩”は書くことで尽きることなのだろうか? 書いたものなど、つまるところ詩の在りようのうちのひとかけらにすぎないもののように思えるのだが、どうだろう。
 もちろん書かれない文学は存在しない。しかし書かれない詩は、詩を生きる行為として存在すると思うのだ。この書かれない詩を生きているさまざまな人たちによって、世の多くの活力はもたらされている。詩が言語でしかない知性たちに、虚実を打ち鳴らして立ちはだかっているのはこの閉ざされた暗喩である。それは“詩”が併せもつ他者の生であると言ってもよいであろう。人はそれぞれ自分の詩を生きているのであり、詩人はたまさか、ことばによる詩を選んだものにすぎない。その「ことば」に依らない詩を生きている多くの人たちのつかえたことばを、だからこそ詩人には自分のことばに重ね合わす責務が栄光ともなって負わされているのだ。私の詩がぜいたくなまでに時をむさぼってばかりいるのも、この無口な他者の喩に通底する喩を、己れのことばとして対置できないでいることのもたつきである。ひねりだすことばに窮しているのではなく、すでに在ることばをかかえきれないでいるもどかしさなのだ。
 身の毛もよだつあのおぞましい記憶の「光州制圧」は、この五月で満三年を刻む。時は経ったのに、いつまでもすぐそこですくい取れないことばがくすぶっている。冷めて燐光となる時を、私はただ自己の詩にかかえて執念く待っているのだ。

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素晴らしいですね。 私ももやもやとこんな風なことを思っていたりするのですが、これだけしっかり書かれていると爽快ですね。魂がふるえます。
「あるがままの状態に自足したりあきらめたりせず、打ちすごしていることがらが気がかりで、見すごされているものごとに眼差しを注げる人なら、その人は資質として詩人だ。実際見すごされ打ちすごされているものごとのなかにこそ、本当はそうであってはならない大事なことがらがひそんでいる。人権や歴史認識などの問題も、そのような見すごされているもののうちのものだ。出来上がった権威や行き渡っている定義を鵜呑みにするようでは、まず己の批評は芽生えてこない。だからこそ書けるから詩人ではないのだ。そのように行きとおそうとする意志力のなかにこそ、私たちが生きるべき詩はあるのである。」(金時鐘「日本の詩への、私のラブコール」、『境界の詩』藤原書店、2005年)
だから、「ことば」に依る詩人は日常においてもめいっぱい詩を生きなくてはならない。人々が詩人になるだけで革命は起こりうると私は思う。
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by Fujii-Warabi | 2007-06-01 11:21 | 詩人・芸術家の紹介
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