石原吉郎の絶望について

 絶望しやすい人間と、容易に絶望しない人間があるというのはどういうことか。僕は自己への関心の強さが、その人間の絶望への勾配を決定するのだと思う。犬や馬はおそらく絶望しない。人間は絶望することのできる唯一の動物であるといったキェルケゴールは正しい。人間は自己に対して関心をもちうる唯一の動物だからである。絶望しやすいということを恥じてはならない。しかし同時に、絶望する能力をもつということは、いかにしても救いえない人間の暗さを示すものではないだろうか。人間はつねに人間以外のであってはならないが、しかし人間であるということは祝福と絶望の二重の構造のなかで考えられなければならないのだ。人間がそれ自身として人間であること、人間の絶望のもっと深い根源はおそらくそこにあるのであろう。それは論理的にいっても、きわめて明らかな帰結であるように思われる。いいかえれば、絶望は人間のもっとも根源的な存在形式なのだ。

※『石原吉郎詩文集』(講談社文芸文庫、定価1,400円)、「1960年9月9日のノート」


 詩人・石原吉郎(1915年~1977年)は第二次世界大戦が終わって約十年ほどして現れた、最も遅れて登場した戦中派詩人といわれる。彼はソ連でスパイとして拘留され、1953年まで過酷な強制労働を体験する。
 石原吉郎のノートにはずっと「絶望」が綴られている。私自身、絶望しやすいこともあり、詩よりもこのノートがしっくりきた。上記の9月9日のノートは私へのエールのようで、絶望を肯定しながらいきようと思えた。絶望するからにはそれまで希望を持っていたはずで、希望が大きいから絶望も大きいともいえる。絶望と希望の繰り返し。それが私の人生である。
 ただこのノートの「人間は絶望することのできる唯一の動物であるといったキェルケゴールは正しい」と箇所には反論がある。人間中心主義の哲学のように思う。犬や猫は最愛の飼い主を亡くすと家にこもって出てこなくなり衰弱してしまうことがあると聞く。人間は絶望しやすいのだろうが、動物も絶望はするのだと思う。ただ生きていく上で、絶望というのは生物には特に必要ではないので、そういう意味でいえば人間は不要な能力を多く持っているともいえるだろう。
 最近、人間の身体は進化の失敗作ではないかと思えてきた。猫などを見ていると実に見事な体なのだ。それに比べ、人間はぎっくり腰やむち打ち症、肩こりに頭痛、2本足で立つことになったがために色々とおかしな現象を起こす。よくあるひょろりとした頭の大きい宇宙人など絶対地球上には存在しまい。人間の身体が限界なのだから。
 絶望というのも、人間中心に世界を見ていたらますます深くなるような気がするのは私だけだろうか。自然も猫もその体のようにただそのままに存在し、人間は様々な余分なものを付けたり剥がしたりしているように思う。人間は自然の環のごく一部分に過ぎず、泣いても笑ってもいずれは灰になり自分を生んだ土に帰るのだと思えば、存在の絶望というのが薄れるような気がする。詩人が自然をうたうのはこういうゆえんであろうか。
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by Fujii-Warabi | 2007-03-30 16:53 | 詩人・芸術家の紹介
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