『愛する人を所有するということ』

 愛する人に見いだされた新たな魅力は、自分の観念世界の引き出しにはなかった、互いの存在の境遇と状況的文脈の交錯が際立たせたものである。この構造的文脈によってうながされた愛する意識の変容は、少なくとも新たに創出された意識の昂ぶりとふるまいの刷新を通じて、愛する者の存在に活気と躍動をもたらす。そればかりではない。愛する者は、相手の存在によってみずからの存在が昂揚せられる関係そのものに、ある種の驚きと感動と幸福をおぼえることができる。他者との結びつきが自分の存在を輝かせることそれ自体によって、愛する者の存在はまたひときわ輝くのである。じつは、ことの「なりゆき」が幸福なものであるなら、同じことは相手にもおきる。まさにこうして、愛する者が活き活きと躍動する存在を示すことによって、相手の側も、自分との交わりがその存在の輝きを創出したことに驚きと感動と幸福をおぼえ、その存在を昂揚させるのである。
 それは、愛する者と相手との「関係」が生み出す存在の振動と輝きであり、いずれの当事者の存在にも還元できない「あいだ」の「なりゆき」が創造する、存在と活気の躍動にほかならない。そのとき愛は、次々と立ち現れる他者の魅力に結びつこうとする態度というよりも、互いの交わりを通じてお互いの存在の振動と輝きを生みだすことそれ自体を追求する関わりとなっている。そのつどの発見の内容が互いの性質である構図がなくなるわけではないが、そこには、自分の固定的な基準にもとづいて相手の性質を愛する構図がないだけでなく、互いがそなえる性質を愛の主原因とする構図もない。ここでの互いの存在の輝きは、いずれかの当事者の性質に帰することのできない、愛する者と相手の相互作用が創出するものなのである。
 そこには、存在の美しさがあると言ってもいい。それは、ブーバーが描きだしたあの「関係」の輝きにほかならない※。愛する者たちは、互いに「働きかけ、助け、癒し、はぐくみ、高め、救うことができる」のであり、そうして「生きた現実となる」。この意味での美は、決して互いの存在を輝かせる愛の結びつきと矛盾などしない。たしかに、相手の存在に固定的にそなわった性質として美を求める態度は、その美に寄与しない交わりを敬遠するだろうし、また交わりそのものが生みだす存在の美を看過するだろう。しかし、互いの交わりによって相互的に存在が輝くことを求める者たちは、まさに愛の交わりが創出する美を求め、享受する者たちなのである。美と愛の結びつきが不可分である理由は、まさにここにある。

         浅見克彦『愛する人を所有するということ』(青弓社、2001年)P124、125


※ 彼(マルティン・ブーバー)が真の実在を生きる者としたのは、「一切と一切との相互性の流れのなかに極めがたく引き入れられて生きている」存在である。それは、「関係のなかに立っている」者と言ってもいい。みずからに対する能動的統御の構えを棚あげし、愛の結びつきを織りなす状況的文脈の交錯に身をゆだねる者の姿は、まさにこの関係を生きる存在に他ならない。愛の「なりゆき」を生きる者は、お互いの意志と行為に還元しえない「相互性」を引きうける。「愛は我と汝のあいだに存在するのである」。こうした者にとって、みずから関与する愛の結びつきの原因となることは思いもよらぬことだろう。「関係」を生きる者は、「因果律のうちに引き入れられてもいなければ、因果律によって染色されてもいない相互作用のなかに立つ」のだから。ブーバーは、そこに人間の真の実在を見た。どれほど主体性を掘り崩すものだとしても、愛する者を連れ去る「あいだ」の「なりゆき」こそが、愛する者の「真実の充実した現在」なのである。「真に生きられるあらゆる現実は、出会いである」

      同書 P85、86  引用箇所はマルティン・ブーバー『我と汝・対話』(みすず書房)より



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 人は絶えず変化する。それゆえ、安定的な関係など存在しない。永遠に変わらぬ愛などもありえない。
 でも、人が「自己を求める」内的な運動(movement)を続ける限り、美を瞬間のなかに発散し続けるはずだ。そして、相手とのあいだに「愛」と呼ばれる創造的な一瞬が生みだされてゆくだろう。目の前のその一瞬を大切に重ねてゆくことでしか永遠は見えてこない。
 広大な海に隔てられた他者とお互いのかけがえなさに気づくとき、海が割れ道ができるような感じがする。やっと相手の姿が見えるのだ。この世でそれ以上に美しい瞬間があるだろうか。
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by Fujii-Warabi | 2011-04-20 20:33
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