視よ、蒼ざめた馬あり、これに乗る者の名を死といい……

 七月二十日。
 わたしは目をとじて横になっている。あけ放たれた窓から通りのざわめきが聞こえ、石の町がおもくるしくあえいでいる。エルナが爆弾をつくっているのを、わたしは夢うつつで感じている。
 ほら、彼女がドアに鍵をかけ、錠がにぶい音をたてる。彼女はゆっくりとテーブルにちかづき、ゆっくりと火をつける。鉄板のうえには灰白色の粉末――雷酸水銀がある。ほそく青い焰、蛇の舌が鉄をなめまわす。爆発性の粉末が乾いていく。紛粒がぱちぱちとはじけては、ときおり弱く光る。ガラスのうえを鉛のおもしが転がる。このおもしが鉛の管をうち砕く、すると爆発はおこるのだ。
 すでに同志のひとりがこの作業中に死んだ。部屋には彼の屍体、屍体の断片、つまり飛び散った脳漿や、血まみれの胸腔や、ひきさかれた手足がのこされ、このすべてが荷馬車で警察署に運ばれた。エルナもおなじ危険にさらされている。
 そう、もしじっさいに爆死したら? 亜麻色の髪とおどろいたような空色の目ではなくて、赤い肉片が転がっているとしたら?・・・・・・そう、そのときは、ワーニャが爆弾をつくるだろう。彼も化学者である。彼ならこの仕事をやりおうせるだろう。
 目をあける。真夏の日ざしがカーテンをとおしてはいり、床に照りはえている。わたしはふたたびまどろみ、それからまた、おなじ考え。ゲンリッヒはどうして爆弾を投げなかったのか? どうしてだ?……ゲンリッヒは臆病者ではない。しかし、過ちは恐怖よりわるい。それとも、これは偶然なのか? どうにもならぬ偶然なのか?
 いずれにせよ、どうでもいいことだ。すべて……どうでもいいことだ。ゲンリッヒのテロ参加がわたしの責任なら責任でいい。総督の命びろいがゲンリッヒのせいならせいでいい。エルナが爆死し、ワーニャがフョードルが処刑されるならされるでいい。どのみち総督は殺されるだろう。わたしがそう望んでいるからだ。

                               ロープシン『蒼ざめた馬』(川崎浹訳、岩波現代文庫)より



memo

 ロープシン(1879-1925)はロシアのテロリスト作家である。社会革命党(エス・エル)でテロ指揮者として活動し、モスクワ総督やセルゲイ大公らを暗殺している。
 ロシア革命後も同様の活動をつづけた。それは、「ボリシェヴィキが憲法制定会議を無視して一挙に独裁権力を目ざしたため」だ。レーニン・スターリンの宿敵となった詩人はこうして滅んでゆく。

 『蒼ざめた馬』はそんな戦闘のなかにいた人物が書いたとは思えないほど、繊細で抒情的な作品だ。いや、しかし、冷徹なまなざしがある。人を殺しながらも、いつも命に向き合い、「愛のための殺人」という矛盾をそのままに抱えていたのだろう。

 「過ちは恐怖より悪い」。それは、「過ち」は行為の未遂であり、「恐怖」は感情の後退であるから。私たちの生活では、だいたい逆だと思う。「恐怖」を克服すれば、次は「過ち」を糧にできる。でも、テロリストに「次」はないのだ。大きな権力を敵とする彼らは、その一瞬一瞬に成功しなければ、根こそぎ刈りとられてしまう。
 刹那の限界を生きる、それは詩でもある。


 岩波現代文庫には翻訳者・川崎浹さんのロープシン論も収録されており、これが大変興味深い。また、この方の訳はしずかで、素晴らしいと思う。


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by Fujii-Warabi | 2010-07-28 15:36 | 詩人・芸術家の紹介
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