『パリ、テキサス』を観て~自己の在るべき時空を失って~

 一週間前の土曜にEU協会による上映で、ヴィム・ヴェンダース監督作品『パリ、テキサス』(1984年)を観た。まず、このタイトルが不思議だと思った。パリとテキサスが舞台なのかと思いきや、パリは全く映されない。そういえば、私が観たヴェンダースの映画二作『ベルリン・天使の詩』『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』も場所へのこだわりがあったことに気づいた。
 『パリ、テキサス』は空間・時間をテーマに据えた作品だろう。主人公・トラヴィスがテキサスの砂漠で倒れるシーンから始まり、大都会ヒューストンのビル街に消えてゆくシーンで終わるのが象徴的だ。トラヴィスは最初何も語らない。そして、どこへ向かうのかもわからないまま逃れるようにして、ひたすら灼熱の砂漠を歩く。ヤクザな診療所で手当を受けるが、そこからも逃れ、迎えに来た弟のウォルターからも逃れようとする。医師は生を管理する者でもあり、弟は兄想いではあるが、宣伝の看板を描きマイホームの支払いに追われる平凡な郊外生活者なのだ。トラヴィスは彼らから逃れたいのはもっともではないか、と最後に描かれるトラヴィスの愛し方・生き様を見れば、理解できるような気がしてくる。
 では、彼はどこへ逃れたいのだろう? 彼にも具体的にはわからないのだろうが、映画の中で暗に示されているように思う。彼は言葉を回復する(記憶/自己を回復してゆく)途上に車の中で、「テキサスのパリ」を撮った写真を弟に見せる。「パリに行ったことがあるか?」というのが失語症状態の彼が発した最初の言葉で、次には「パリに行きたい」と言うのだ。この「テキサスのパリ」という小さな町・記憶は彼の父と母が結ばれた、彼の起源となる場所・時間であり、4年前に大都会ですべてを失った彼はどうやらこの小さな出発点に還ろうとしていたようなのだ。
 では、約8年分の記憶を遡り、言葉と記憶を大方取り戻した彼は、最後にヒューストンでまた一人になるが、どこへ向かうのだろう? 彼はおそらくもう「パリ」を探しはしないだろう。彼は愛する人といた時もトレーラーで放浪していた。本来的に根無し草的に彷徨う旅人なのである(それは古典的アメリカ人を象徴しているようだ)。また、これは1984年の作品なのだが、ヒッピーのいた革命の時代も過ぎ去り、あらゆるものが商品化された大量消費社会の爛熟期、もう逃れる場所はない、都市で生きるより他はない、ということを意味するのかもしれない。
 彼は「所属」から逃れつつも、責任からは逃れてはいない。彼の職業は明らかにされないほど、彼自身も重きを置いてはいないようだったが、それはこの消費社会を作る一員に組み込まれることへの拒絶でもあるのだろうし、それでは「逃走」だけなのかと言えば、関係が壊れるほどに妻を愛し、子を妻の元へと戻そうと無謀ともいえる行動を起こすように、情が深く、自分自身を求める「活動」に熱心なのだ。だからこそ、彷徨わねばならないのである。そして、そこに心の彷徨える私も魅かれるのだ。

 この作品は恐れ入るほど対比が効果的に使われている。まず、タイトルの「パリ」「テキサス」も両者のイメージはまるで逆のものだ。そして、最初のシーンの青い砂漠とクライマックスの赤とピンクの服の登場人物たち。無謀なトラヴィスと消費社会ともうまく折り合ってゆく着実な弟ウォルター、アメリカ人で若い妻ジェーンと弟の妻でフランス人で落ち着いたアン。トラヴィスとジェーンと息子ハンターという彷徨える旅人体質の家族とウォルターとアンという定住型の平凡だが温厚で家庭的な夫婦(トラヴィスの方に子があり、ウォルターに子がなく、未来を象徴する子どもは放浪者のほうを選らんだという設定が興味深い。監督の想いがここに表れているように思う)。広大な砂漠・大都市と狭い車・覗き部屋。トラヴィスは広大な場所では無口だが、車や弟の家や覗き部屋やコインランドリーといった狭い空間では話す(つまり観客が彼らの大きく重い過去を知るのは狭い場所である。ほとんどがトラヴィスやジェーンの独白となるので劇場を観ているような気分になる。覗き部屋の場合はさらにそれを覗くのだから、入れ子構造といえるだろうか)。トラヴィスはテキサスを彷徨いながらも小さなパリを探し、ヒューストンという大都市で妻という一人の女を捜す。

 恋愛、夫婦、親子といった愛の描き方もとても興味深い。こちらはこちらで重要なテーマであるし、トラヴィスは「愛の囚われ」からも逃れようとしていると思われるので、展開してみたい気がするが、今はこれ以上書くゆとりがないので、またの機会にしたい。
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by Fujii-Warabi | 2010-04-04 00:12 | 芸術鑑賞
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