『紫陽』19号が『詩人会議』2010年1月号、磐城葦彦氏による詩誌評で取り上げられていました。(以下、引用。)
河津聖恵の「シモーヌの手」は”はるかな原初から/魂のように不器用なまま/捨てられた詩のひとふしを/ポケットの中で鳴らしている手”から始まるシモーヌのたくさんの表現上の手は極めて象徴的であり、やや長い作品なので全部は紹介できないが、”手が手であるかぎり/魂のように不器用であるのならば/もうふたたび二人の詩を/二人をへだてる深淵からこそ書き始めている/「シモーヌの手」と題する百歳のシモーヌの手”で終るまでの多様な展開がすべての手にかかわっているのは興味深かった。服部剛の「遺影のまなざし~四十九日前夜~」の作品は”小さい額縁に吸いこまれた/(もう一つの世界)から/職場の老人ホームで/お年寄りと僕が/笑って過ごしたひと時を/眺めていたように微笑する/祖母のまなざし”など祖母に寄せた思いが角連毎に描かれ、亡くなった人の骨壺の前に「ありがとう」の言葉を添えて手紙のように置くとの気持ちが、遺影との対話になってそこはかとなく漂っている。